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ドーンDAWN10号

2002年11月24日発行
第8回 児童文学ファンタジー大賞選後評特集号

 大 賞  該当作品なし
 佳 作  該当作品なし
 奨励賞  「【nino】―ニノ―」 桐敷  葉

第8回児童文学ファンタジー大賞の公募は2001年11月から2002年3月31日までの期間で行われた。(第9回は2003年3月31日締め切り)応募総数176作。
2次選考において21作が通過、2次選考では6作、3次選考会においては次の3作が候補作に決まり、最終選考委員にそれらの原稿を送付した。

 桐敷  葉 「【nino】―ニノ―」
 上仲まさみ 「交差点にたたずんで」
 古市 卓也 「おじいさんの人形芝居」

最終選考委員会は河合隼雄(委員長)、工藤直子、斎藤惇夫、脇明子、中澤千磨夫、工藤左千夫の各氏によって構成され、2002年9月22日、小樽にて開催された。
選考会は、大賞推薦の作品の有無から始まり、結果としては大賞・佳作とも該当作品なしということで、全選考委員の意見が一致した。
続いて、奨励賞の選考審議に入り、桐敷葉「ニノ」が本年度の奨励賞に決定した。
桐敷 葉
略  歴
1979年生まれ 23歳 東京都在住
2001年 早稲田大学卒業
「【nino】―ニノ―」
四百字詰原稿用紙換算枚数・455枚奨励賞

「【nino】―ニノ―」 桐敷 葉
▼受賞コメント
選考委員の先生方、関係者の方々、本当にありがとうございました。「【nino】―ニノ―」まさか賞をいただけるなどとは、正直なところ、夢にも思っておりませんでした。
書くにあたって、ファンタジー文学とはなにか、ということを考えていました。ファンタジー、イコール西洋魔法世界、という図式は主に古代中国と親しんできた私には肌に違和感を感じるものでありましたし、現実から異世界への冒険、というのは手法的に気がのりませんでした。そこで、私にとってはやはり異世界との接触だな、と思ったわけですが、小さい頃は昔話やグリム童話や仏教童話に何重にと包まれた環境にあり、果ては聖書にイスラームに中国に……とファンタジーの素がどっさりとつまった世界にひたってきたためか、ファンタジーとは壁紙の向こうにあるような、そんな身近な感触で、そのくせいざ言葉にして見ようとしてもうまく表現できず、簡単に接触と言ってもどうしたものか、さらに考えることになりました。
そんなときふと、私たちのいるこの現実世界において、私たちのもつ心の中にこそ、ファンタジーがあるのではないか、と思いつきました。それは理由もないのに常に人の心に明るくともる希望でもありましょうが、私があえて選んだのは、不条理さでした。社会はそれを真実と認知し、人々もそれを疑わないが、実は何の根拠もないそれ、根拠がないことが理屈で証明されても信じ続けるということ、それは一種のファンタジーではないか、と考えたわけです。そしてこのファンタジーを、彼らがどうひっくり返すのかを書こうと企て(実際は枚数の関係で、どうしても根本的な問題の解決までは書けなかったのですが)、書き込もうと力んだがゆえに稚拙で直截に過ぎ、こなれず、筆力と私自身の経験の不足もあって、いくつも反省すべきものになってしまいました。それでも脱稿時には一種の興奮状態に陥っていますから、それなりの充実感、成長感はありました。
しかし今、こうして冷静になってみると、いくら架空世界を舞台にしたとはいえ現実の中にあるファンタジーを現実からの視点で書こうとしているのですから、それはファンタジーではない物語で「人の心理は複雑である」という当然の前提をもとにドラマが展開するのと同じであり、まったくの早とちり、私基準のファンタジーではまだまだファンタジー文学とはいえないと、実感しています。
ファンタジーとはなにか、ファンタジー文学とはなにか。あらためて一から探していこうと思っております。本当にありがとうございました。
河合 隼雄
選考委員長
文化庁長官
臨床心理学者/絵本・児童文学研究センター名誉会長
●世界的な臨床心理学者として著名であり、近著として『声の力』、『ナバホへの旅 たましいの風景』などがある。豊富な臨床体験と東西文化の比較、ユング心理学等の深い洞察を通して独自の世界を構築中。奈良市在住

率直な感想は「まだまだ修業が足りない」
最終選考に残った三作を読みながら、今年も駄目かと淋しい思いをした。ファンタジー作品を生み出す根本姿勢がそもそも弱い、という気がした。
最終選考会は大相撲の千秋楽の日だったので、私は角力にたとえて言った。「それぞれ新しい技は身につけたかも知れないが、ひとつも強くなっていない。それは根本ができていないからだ。」角力の根本は「押さば押せ、引かば押せ」である。押しに徹することだ。
児童文学ファンタジーの根本は、「子どもの目」という透んだ目で見た現実を、これを人に伝えるためには「ファンタジー」という方法しかない、という確信に支えられて、作品を生み出していくことだ。これはスポーツの烈しい訓練や、宗教者の厳しい修行にも通じることである。実に大変なことである。選考会に臨む前に、私の抱いた率直な感想は、どの作者も「まだまだ修行が足りない」というのであった。選考会における他の委員の御発言を伺っても同様の感じがした。
そういう意味では、今回は「賞無し」でもよかったとさえ思われた。しかし、私は、桐敷葉さんの「ニノ」に、相当な可能性を感じ、これを「奨励」したいと思った。この作品は「ファンタジーではない」、「欠落者という言葉は安易すぎる」などの批評があり、私もそれらに賛成であるのだが、この作品を読んでいるうちに、最初に述べたような根本姿勢をもって、この作者が努力すると、素晴らしいファンタジーが生まれてきそうだ、と予感したからである。これがあくまで「奨励」であることをよく自覚し、じっくりと焦らずに新しい作品を生み出してきていただきたい。
上仲まさみさんの「交差点にたたずんで」は、残念ながらプロットから人物から、すべてがあまりに類型的である。この方は、「ファンタジーが心のなかに生まれてくる」ということがわかっていないのではないか、と感じられる。作品を「作ろう」としすぎている。既成の材料を集めて「作ってみる」ことをしても、創作にはならないことをよく知っていただきたい。
古市さんは、毎年一作書かれることに無理があるように思う。長い間休場し、土俵上でほとんど稽古をしなかった貴乃花がなぜ強かったのか考えていただきたい。古市さんは、それでも一年間何も書かずにいることなど出来ないタイプだろうから、スケッチを書く練習とか、児童文学以外のジャンルで書くことをするとか、何とか工夫をされるといいだろう。「ファンタジー作品」を書くことを少し休んでみることがいいのではないだろうか。
来年はセンター開設以来の十五周年である。新しいセンターの部屋もできたし、十五周年を祝う大賞が生まれてくることを、心から期待している。何だかもうそろそろ大賞が生まれてくるという、期待に胸をふくらませつつお待ちしている。

工藤 直子
選考委員
詩人
●詩・童話を中心にエッセイ・翻訳の分野でも活躍中。
著書『てつがくのライオン』(理論社)、『のはらうたⅠ~Ⅳ』(童話屋)、『こどものころにみた空は』『象のブランコ-とうちゃんと』(ともに理論社)、『工藤直子詩集』(角川春樹事務所) 伊東市在住

「書きたい」という力は自分のどこから来ているのか
「書きたい」という力は、自分の中の、なにに突き動かされて生まれて来ているのだろう? という思いは、私自身、いまだに自問し続けている思いです。
誰に頼まれたのでもなく、宿題でもなく、また人に見せることもなく(というよりむしろ隠して)それでも書きたくて、ノートに書き始めたのは、中学二年の頃でした。
書き続けたノートや紙の切れ端が、溜りに溜まり、大きなダンボール箱に溢れて息苦しかった。(溜まった言葉を整理し書き直し「自分はなぜ書きたいのか」見極めよう)と思ったのが二十六歳のときでした。
整理し書き直した結果、一冊の自家版詩集をつくり、ダンボール箱の中身を捨てました。……そんなふうに私の「書く」ことは始まりました。
おそらく応募される方の作品の背後にも、それぞれの「書きたい力」の出どころがあるのだと思います。
なにを書くか、どう書くか……の前に、なぜ自分は「書きたい」のか自問すること、それが今回これを読んでくださる方に、いちばんお伝えしたいことです。
――自問し続けることで、作品の方向や手法が現れてくると思うから。
さて、今回の三編。前回同様、略歴あらすじなどを前もって読まず、アイウエオ順に、(買った本のページを、いそいそと開くようにして)読み進みました。
選考会で、他の委員の方々の考えと、ほとんど同意見でしたので、それにつけ加えるという形で選評を書きます。
まず上仲まさみさんの「交差点にたたずんで」。主人公をはじめとする少女たちの会話の部分にいきいきしたものを感じました。そして上仲さんが「現場を活写する」という力を伸ばしたら、ご自身の「書きたい」ものに迫れるのではないかと思いました。(たとえばノンフィクションの分野など)。
次に桐敷葉さんの「ニノ」。新しいナニかが芽生えそうな力を感じました。物語としての破綻は諸所にありますが、登場人物の体温を感じ息づかいが聞こえる部分もまた諸所にあり、引き込まれました。
新しいナニか……というのは、「可能性」ということです。今回の奨励賞はその可能性への賞だと思います。
最後に古市卓也さんの「おじいさんの人形芝居」。古市さんは前回佳作に入選されました。筆力、物語の展開など、力のある方ですが大賞にはいたりませんでした。佳作の次は大賞しかありません。この壁を超えるのは実に大変だと思いますが、乗り越えてほしい。今回の作品あるいは前作を再度見直して徹底的に手を入れる、というのも、壁を超える一つの方法だと思いました。
短い選評ではありますが、みなさんへの、「応援歌」のつもりです。自分がなぜ書きたいのか、腰がすわったら、おのずから作品に目を配る視線も定まり、客観的に自作を見渡せると思います。
どうぞ、その視線で細部まで自作を見直し書き直してみてください。……何回も何回も何回も何回も……何回でも!

斎藤 惇夫
選考委員
児童文学家
●長年、福音館書店の編集責任者として子どもの本の編集にたずさわる。
2000年より作家活動に専念する。
1970年『グリックの冒険』(アリス館牧新社:現在は岩波書店)で作家としてデビュー。
著書『僕の冒険』(日本エディタースクール出版部)、『なつかしい本の記憶』(岩波書店)の中の『岩波少年文庫と私』、『現在、子どもたちが求めているもの』『子どもと子どもの本に捧げた生涯』(ともにキッズメイト) さいたま市在住

生まれるに時あり
三作を読みながら、しきりに皆さん書き急ぎだと思いました。物語を書かずにはおれないと感じたそもそもの衝動、訳の分からない魂の飢え、そこに向かってペンをすすめるには、見えてきた世界を存分に楽しみながらも冷静に見つめ、できるだけペンをゆっくりと動かし、正確に精妙に写し取っていかなくてはなりません。そうでないと、その世界を読者が見たり、体験したりすることができないばかりか、物語を書くことによって、子どもたちに近づいていくことも、彼らに愛を告げることも不可能になってしまいます。生まれるに時あり、です。
ニノ
濃厚で、力強い文体と、事件を積み上げながら物語を展開させていく技術は高く、何よりも独特な香りと風を作品の中に感じさせる。若い作者の登場と思いたい。ただ、物語の舞台の詳細な地図と、肝心の機関車と内海に架けられた鉄道線路の設計図が作者の心に精確に描かれているとは思えず、読者が風景を楽しみ、そこに住む人々の息づかいを感じ、内海の上を走る汽車を想像することが難しい。主人公の少年の成長と差別の問題も、差別の実態が曖昧なうえ、その差別を生み出した人間と人間の歴史が教科書の孫引き程度にしか描かれておらず、従ってそれと戦う少年の姿を描ききれず、主人公の曖昧な死でしか物語を閉じることができなかった。甘い。言葉のみの力で、舞台も人間もごまかさずに細部に到るまで明確に描きだすこと。ファンタジーを生み出せるか否か、勝負はそれからです。
交差点にたたずんで
神社の境内でのみ一時感じる自由。自然児ミナミの登場。いじめ。両親の不和。消えない耳鳴りと聞こえはじめた泣き声。主人公とミナミにだけ見える白い犬。それを追っていって見つけた自分が幼児期に描いた絵……。と、十二歳の女の子を描くための道具立てはうまくいっているのに、そして全体の構成も無難で、物語はいいテンポで語られているのに、内容が深まり広がっていかず、主人公がふくよかに育ってこない。物語を書き終えることに急くあまり、作者がそれぞれの道具に命を吹き込むことを怠っているとしか思えない。主人公の父親も母親も、ミナミの父親も、教師もいじめ役の綾も、あまりに類型的。登場人物の全てが固有のドラマを持っており、それを見据え描くのが物語。主人公が育つ場所もそこにしかない。人や場所や物がそれぞれ作者の中で輝きはじめ、語りかけてくるまでじっと待っていただきたい。物語の構成能力、語り手としての資質を大切にしてほしい。
おじいさんの人形芝居
物語を生み出そうとしている作者の内面の、猥雑でとりとめがなく、てんやわんやの情景そのものを、一遍の作品にしようとした野心作。この作品が子どもたちのものになるためには、いや、物語として成立するためには、老人が語り演じ始めた人形劇の内容が、次第に老人の記憶を甦らせ、あるいは老人を露にし、一つの魅力的な物語をそこに見せ、それが登場人物たち、読者をうつものになっていなくてはならない。残念ながら、海賊の船長を探したり、お姫様がブリキで、ネジなしには生き返らないという設定は、まだ物語りの体をなしておらず、いたずらに、人形劇と実生活がからみ、混乱のみが目立ち、冗長で退屈な作品になってしまった。ところどころ物を創る人の内面が鋭利な言葉で語られたり、狂言回しの猫の、ユーモラスな登場人物観察が述べられたりしており、この作者の才能の片鱗は感じ取れるし、作者の内面を窺うには興味深い作品なのではあるが、それだけで終わった。新しい作品を書く手を休め、今まで書いたものを本にするための作業、つまり、子どもたちに対して本当の勝負をゆっくり始めてほしい。敵は手ごわいですぞ。

脇 明子
選考委員
評論家/翻訳家
●ノートルダム清心女子大学教授。大学で児童文学の講座を担当。
著書『ファンタジーの秘密』(沖積舎)、『おかぐら』(福音館書店)
訳書「不思議の国のアリス」(キャロル著)、「ムルガーのはるかな旅」(デ・ラ・メア著) 「ぐんぐんぐん」(マレット著)、「クリスマス・キャロル」(ディケンズ著)ともに岩波書店 岡山市在住

世界を作ることと映像を作ることとの違いを認識してほしい
ファンタジー大賞の選考委員になって五年――古市さんの作品を読むのも、「おじいさんの人形紙芝居」で四度目になる。最初の「鍵の秘密」以来、この作者のおっとりした語り口の味わいや、ちょっぴり皮肉をまじえた比喩の巧みさなどに、少なからぬ親しみを覚えるようになっていたので、今年こそはと期待して読みはじめたのだが、残念ながら笑い半分、ため息半分といったところだった。
人生の終わりを迎えた老人が、娘の助けを借りて人形芝居をはじめ、その芝居の中身と現実とが交錯するという構成は、子どもむけの物語としてはややこしいかもしれないが、ホフマンなどの例もあるし、うまく整理できれば悪くない。全体の語りを老人の飼いネコにゆだね、いかにもネコらしいこだわりを随所にちりばめてあるのも、この作者ならではのうまさである。だが、肝心の人形芝居がはじまるまでが長すぎて、度重なる肩透かしにいらだちがつのってくるし、やっとのことで芝居がはじまっても、それと現実とのあいだには、わざわざ二重構造にするほどの重なりが見えてこない。本来ならこれは、現実の世界で生きるうちに仲違いし、お互いを見失った父と娘が、海賊船の船長とお姫さまとしての自分たちの真実を思い出す物語になるべきものだと思うのだが、どうもこの作者は細部の工夫に熱中しすぎて、物語が歩みたがっている道筋に従うという王道を忘れてしまっているようだ。
「交差点にたたずんで」の上仲さんも二度目だが、受験ストレス、いじめ、両親の不和、弟への嫉妬と罪悪感に加えて、専業主婦の悩みや古い町の破壊の問題まで、暗いテーマをこれでもかとばかり詰め込んであるので、読んでいてまったく楽しめない。もちろん暗い状況を扱ったっていいのだが、これから人生に立ち向かおうとしている子どもたちのための物語は、たとえ悲劇に終わろうとも、好きになれる他者との出会いや、生きる喜びの実感を与えてくれるものであってほしい。ところがこの作品では、主人公を取り巻いているのは型にはまった「いやな人」ばかりで、たった一人の友だちにさえ魅力がないし、秘密の場所である神社の裏も、愛着のわく空間にはなりえていない。さらに問題なのは、一応のファンタジー的要素である耳鳴りや犬の幻が、主人公にとってのドラマの余計な添え物にすぎないことだ。そんな添え物にふりまわされずに、リアリズムで勝負するほうが、この作者にはむいているという気がする。
その点「ニノ」は、五ヵ月も走り続けているという汽車の上ではじまり、森のなかへ、古めかしい町へと、読者を自然に誘い込む力を持っている。だが、肝心の筋のほうはかなり粗雑で、主人公が忌み嫌われている《欠落者》だという問題と、海を渡る汽車に関する事件とが、どこまで行ってもかみあわないまま、主人公の自己犠牲死によって強引にしめくくられる。《欠落者》は性別のない者という設定で、これを子どもが自分の性別と折り合いをつけることの問題に結びつければ、おもしろい展開にもなりえたはずだが、そういう話にはなっていない。だったら民族差別や身分差別でもおなじなわけで、不快な呼び名を使ってまでこんな設定にする必要はなかっただろう。あるいはこれも、そのままではファンタジーにならないものをファンタジーにするための工夫だったのかもしれないが、無理な添え物を使っては、通る筋さえ通らなくなる。
それでもこの作品を奨励賞に推したのは、人物や情景をありありと見せる文章力に可能性を感じたからだが、筋にはあまり説得力がないのに情景だけは見えるというのは、ひょっとすると、頭のなかに映像を作って、映像としての見せ場、見せ場を追いかけながら、それを文章化しているからではないだろうか。もしそうなら、ひとつの世界をまるごと作ることと映像を作ることとの違いを、ちゃんと認識しておいてほしい。そうでないと、本物のファンタジーには決してたどりつけないだろう。

中澤 千磨夫
選考委員会幹事
北海道武蔵女子短期大学教授/絵本・児童文学研究センター評議員
●日本近代文学から映像論と守備範囲は広い。著書に『荷風と踊る』(三一書房)など。クロード・ランズマン監督がホロコースト生還者を追った9時間のドキュメンタリー『ショアー』の北海道2回目の上映を企画。 小樽市在住

些細な言葉の裡にも赤い血の脈を打たせるいう覚悟が必要
桐敷葉さん、奨励賞おめでとうございます。楽しく読みました。とにかく五百枚に近い長丁場。読者を引きずっていく筆力は並ではありません。自分の可能性に自信を持ってさらに上をめざして下さい。
力のある人だから、敢えてきついことを幾つかいわせてもらいます。まず、ペンネーム。桐敷さんに限らず、種がつきかけた宝塚ふうのネーミングには毎年辟易します。でも慣れということがありますからね。この程度なら、次々いい作品を書いていけば、気にならなくなってしまうんでしょうね。「【nino】――ニノ――」というタイトルもいただけません。すみつきパーレーンに挟まれたローマ字といい、にのにのと舌に転がした音感といい、くどいと思いませんか。あっさりと「ニノ」でいいのではありませんか。
冒頭、汽車の旅が、「東フラメル地方にはいって五カ月が経つうちに」とあり、ああいきなり不思議の国だなと期待しましたが、この距離感はどうやら破綻だったんですね。東西フラメル、長大な山脈、内海、外海の地理的状況がすっきりと思い描けません。
この物語の中心たるべき「《欠落者》」という発想が生きていません。「体の機能が欠落している」がゆえに第三項排除される者と説明されても、その対比として使用される「《健常者》」という、これまた差別を陰湿に囲い込んでしまう嫌な言葉とともに、単なる符丁として以上の「機能が欠落」しています。これは本当にしゃれになりません。作者の言語感覚の問題です。そうそう。「オレより一個年下」というダスティンの台詞がありました。会話文だから、まあセーフといっていいのだけれども、もしかしたら、桐敷さんがそんないいようを対象化しえていないのではなどと疑ってしまいます。ものを書くというのは、どんなに些細な言葉の裡にも赤い血の脈を打たせるという覚悟の上に成りたつ行為だと、私は信じているのです。
上仲まさみさんもまた、力のある作者です。しかし、「交差点にたたずんで」を楽しく読むことは出来ませんでした。物語の世界が気鬱なものだからではありません。暗い物語をわくわく読むこともあるでしょう。つまらないのは、いじめ、DV、家族の関係など、皆巷間にあふれ消費されつくしているパタンを出ていないからです。
物語の結構にも大きな難点があります。時間処理のまずさです。語りの現在と語られる過去の問題。十二歳の主人公が妙に冷めていませんか。大人の視点が密輸入されているからです。子ども時代を回想するという構成自体が悪いのではありません。物語内現在という言葉もあります。回想される過去に遡った目で書くということです。この作品でいえば、十二歳の心にシンクロしなければならないのです。セミの穴を見ても、文章にぬけがらをなでるような触感がないのはそのためでしょう。
古市卓也さんの「おじいさんの人形芝居」を、とてもとても楽しく読みました。始まりと終わりの対応も見事です。キャプテンがなぞっていた丸い水平線が、おしまいにはなんと丸いテーブルになっているんですから。
私には、きっちりとしたストーリーよりも、自己言及性が強く、物語を内部から破壊してしまうような志向性を持った作品への愛着があります。だから、語り手が何度も立ちどまって自分の言葉を検証してしまう古市さんのスタイルが大好きです。偉大なジッドを挙げるのが古ければ、近年では後藤明生や大江健三郎が好んで用いた方法です。
〈ほんとう/うそ〉、〈ホンモノ/ニセモノ〉という古市さんが拘ってきたことって、この作品でネコがいっているように、語られているまさにその時にだけほんとうのことが立ち現れるのだという確信ですよね。それは、時には進行中の物語さえくつがえしても構わないという恐ろしい思想なのです。
とはいえ、その恐ろしさは、作者の自己満足的な空回りと受けとられてしまう危険性といつも背中あわせなのです。私にとって十分に魅力的な脱線や饒舌が、幅広い層に簡単に受け入れられるのかというのが、悩ましくよく分からないところです。長さを厭わない古市さんですが、今度はかっちりと短めのお話に挑戦してみませんか。

工藤 左千夫
選考委員会代表幹事
絵本・児童文学研究センター理事長
●生涯教育と児童文化の接点を模索するために絵本・児童文学研究センターを開設(平成元年)。平成14年、特定非営利活動法人となる。現在、会員数は全国で1300名以上。2年半にわたる基礎講座(全54回)を開講するとともに多様な公益事業に取り組んでいる。 小樽市在住

大賞が選出されてから五年、来期こそ大賞作品を
今期もまた、大賞の声は聞こえなかったし、あらためて「大賞」の重みを考えさせられる選考会ともなった。それは、大賞と佳作の壁、佳作と奨励賞の差異などである。
ニノ
奨励賞受賞作品である。しかし、今までの奨励賞選出では、選考委員の満場一致がほとんど。それは奨励賞とはあくまで「奨励」の意味であり、今後を期待する選考委員の温情的措置ともいえるからである。
今回のように「大賞・佳作該当作品なし」、奨励賞のみのケースは幾度もあった。しかし、今期については満場一致というわけにはいかなかった。それは、作者の想いは別にしても、「ニノ」がファンタジーではないからである。架空の世界を使用すれば「ファンタジー」という甘さが鼻をつく。とにかく、無国籍童話が、即、ファンタジーなどと誤解されては困るのである。さらに各委員の選評でも述べられているように「欠落者」の意味の展開と内容の不徹底さが決定的。そうなるとディテールがよくても幹がない、そのような本末転倒に陥っていることである。次作で評価したい。
交差点にたたずんで
本賞のコンセプトである、「大人から子どもの狭間で悩む人間群像」にとらわれすぎた作品。このコンセプトは重要であるが、本作品はその形式を合わせたにすぎない。
「大人から子どもの狭間で悩む人間群像」の入口はあくまで個別性である。それが、内的冒険をとおすことによって、個人を超えて類へと展開されなければ、いや、それを読者に納得させなければ意味がない。「ニノ」でもそうだが、幹を構築していく世界が甘すぎるため、肝心かなめな箇所になるとスルリと逃げてしまう。それはディテールに気を使いすぎているのか、もしくはその表現に酔っているのか、一度、真摯に自分を考察する必要があるだろう。
おじいさんの人形芝居
昨年の佳作受賞者。各委員の評価は別にしても、わたしは古市さんの個性にマッチした作品とみた。ただ、「児童文学」という世界と本作品のギャップを考えるとき、選考会では難しいと思っていた。一般的に佳作の次は大賞しかない。しかし、大賞の壁はやはり厚い。
ファンタジーは内的世界を扱う以上、常に自分(作者)を客観化しうる第三者の目が必要である。今までの古市さんの作品には、この「第三者の目」をもった脇役が希薄だった。しかし、今回は「猫」を登場させることによってようやくそれを獲得したように思われたのである。そしてそのことによって、多少まわりくどい表現が羅列されたとしても、「猫」の目の押さえがきき全体の統一性が保たれた、とわたしは感じたのである。
各委員の選評ももっともなことである。今後、今期の作品やかつての作品を編集者と向き合って完成させ、そして刊行して欲しい。その労力が古市文学の始まりとなるだろうし、その時期はもう来ているのである。
大賞が選出されてから五年が過ぎた。今までの大賞作品は順当な評価と大量の購入がなされた。それは児童文学のファンタジーにおいては画期的なことであったと今でも自負している。来期は、絵本児童文学研究センターが開設して十五年。その記念の年にぜひ大賞作品を見てみたい。

ドーン 10号[別刷]
最終選考会後の記者質問 応答編
(総評は河合隼雄氏ですが、文字数の関係で割愛させていただきます。それにつきましては、本誌三頁をご覧下さい。)
1 選考会を終えて、今回の感想はどうですか。

中澤 千磨夫
選考会で、最初に斎藤惇夫さんの意見を伺ったときに「今年は賞が出ないかもしれないな」と思いました。個人的には賞は出した方がいいと思っていましたので、「ニノ」が奨励賞に決まって良かったと思っています。
古市さんの作品について、斎藤さんが「フェリーニの映画8カ1/2」と、私にとっては衝撃的な評価をされましたが、これは褒めことばであろうと思うようにしています。しかし、子どもの本として受け入れてくれる水準という点では、古市さんの作品はまだ難しいものがあるとつくづく思っているところです。

脇 明子
私は選考委員になって今年で五回目になりますが、まだ一度も大賞が出なくてとっても寂しく思っています。今回は二つの作品が問題になりました。最後にどっちに投票するのかという重い責任を課せられ、つらい思いをしました。私は作品の好き嫌いがはっきりしていまして、今回奨励賞を出した作品は正直言って嫌いな作品です。しかし、筆力があるということで、他にいいのがないので奨励してもいいのかなという安易な思いでした。
古市さんの作品は、私は好きなのですが、まだ作品になりきれていないもの、非常に生なものなので、残念ながら推すわけにはいきませんでした。作家としての古市さんは好きですし、可能性をもっていると思いますが、このように何回も何回も同じレベルのものが続いて出てくるようでは、だめかなと心配になりかかっているところです。古市さんにはここでじっくりと頑張っていただきたいと強く願っています。

工藤 直子
私は去年から選考委員になって今年で二回目です。不思議なもので、去年より今年のほうが何かが見えてくる感じがしました。
脇さんと気持ちは同じで、誰が見ても「おお!」という大賞が出ない選考会は本当に疲れますね。ただ、私はここにいる自分の役目を、編集者とはまた別の「サポーター」という形で担えないものかと思っていますし、これからもずっとそうありたいと思っています。
ただ、自分自身が実際に書く人間(作家)なものですから、皆さんの批評がいちいち自分に照らし合わされて、これは頑張らなくてはならないと、家に帰るまでは思っているのですが、実際に家に帰るとすぐ忘れてしまいます。
奨励というのも、作家の可能性をサポートする意味で選評を書くことができればと思っております。

斎藤 惇夫
古市さんの「おじいさんの人形芝居」と上仲さんの「交差点にたたずんで」が最後の候補に残ったというお知らせをいただいたとき、これは困ったなと思いました。ファンタジー大賞に応募してくるような作品は原稿用紙にして三〇〇枚以上になるので、絶対一年で新しい作品が書けるわけがないし、書けてもらっても困ります。
古市さんの作品については、例えば僕は今フルートを習っていますが、練習している風景、あるいは練習していて師匠に怒られ心の中でいろいろなことを考えながら一生懸命やっているという、そのことを書いているに過ぎない。ちゃんと発表用に自分できちんと整理して、一応子どもたちに向かっても失礼のない作品を書けたと思ってから、投稿すべきなのだろうと思います。
上仲さんについては、いろいろな心の傷があったのかもしれませんが、一つのパターンで人間を見ては絶対にいけない。パターンで書くのだったら今はいくらでも人材がいます。上仲さんが、書くという作業を通して本当に何をやりたいのか、という姿勢をきちんと見せてほしい。
二人とも書く力を持っていらっしゃる方だと思うので、そのあたりのところを整理してほしいと思いました。
桐敷さんの「ニノ」に関しては、僕が一番最初に読んだこともあって、「あー新しい人だ」という思いも手伝い、この作家に会ってみたいなと思ったんです。それは私が編集者をしていたということも要因かもしれません。この人と会ったら、ひょっとして何か新しい世界を書ける人が生まれてくるかもしれないと。しかし、この作品はファンタジーとは全然質の違う作品で、まずいなとなったときに、工藤直子さんが奨励賞を出していいのではとおっしゃいました。
工藤さんの言うことにはなるべく従うことにしていましたし(笑)、この作者に会えるという喜びも味わえる。それはともかく、私は納得したうえでのことでしたが、もっと肩をゆすって頑張ってほしい、時間をかけてじっくりと書いてほしいと三人に言いたかった。上仲さんも古市さんも、三年以上かけてじっくりと書いた作品を読ませていただきたい。
河合先生が子どもの視点でとおっしゃったけれども、子どもたちに対する敬愛の念がちょっと欠けているように思いました。

工藤 左千夫
今日は私は最初から反対者に回っていたようです。
上仲さんの作品については、毎回選評の中で、当センターのファンタジー大賞は、子どもと大人の狭間で悩む人間群像を描くものであるということを一応言ってあります。しかし、特に今回は、何か周囲から与えられた閉塞状況を書けば何とかなるとの安易な世界が我慢ならなかった。期待しているのは、もっと根源的な自己と社会のゆがみの中から生まれてくる思春期の閉塞感であり、回りから状況を与えられたからという世界ではありません。
「ニノ」に関しては、一応奨励賞は出ましたけれど、今回は多数決という状況になり、私は反対しました。その理由は、この作品はファンタジーではないということと、もう一つは「欠落者」という言葉がどうしても理解できなかったということです。
古市さんに関しては、私の好みの作品なのですが、これが児童文学になるかどうか非常に問題があるという点では、三次選考の段階から分かっていました。     
結果としては、古市さんも少し休みつつ熟しながら、編集者との対応でもう一度作品を見直すという時期に来ているという感じがします。
2 次回の応募者に一言お願いします。

河合 隼雄
本当に子どもの目でものを見ること。これは修行に近い大変な仕事なのです。子どもの目で見えてきた現実というものは、もうファンタジーでしか書きようがない、だから書いているんだ、というようにしてほしいと思います。

中澤 千磨夫
この児童文学ファンタジー大賞は、リピーターというか毎年同じ方が応募されるというケースが多いです。
このたび桐敷さんが奨励賞を受賞しました。一年で作品を書くのは無理だという話が選考委員から出ていますが、是非リピーターになって、我々選考委員を良い意味で裏切っていただきたいと思います。もちろん他の方も粘り強くやっていただきたいと思います。

脇 明子
選考委員の私たちに読ませようと思って書くのではなく、自分が子どもの時にその本を手にしたらどんなに楽しく読めただろう、子どもの時の自分が喜んで読めるような作品を書いていただきたいと思います。

工藤 直子
根本的なところは皆さんのおっしゃるとおりです。
ではどう書けばよいのか、一例を話させていただきます。作品を書いている最中は、これが一番面白いと思って夢中になって書いてくださっているかと思いますが、そこから離れて「何これ」というような第三者の目を身につけてほしいです。実は、実際に書くとこれがかなり難しいのです。
例えば、作品の舞台に洋風の家が登場するとします。おそらく書き手の心の中には、洋風の家のイメージが描かれているはずです。それを「洋風の家がありました」と書いただけで読者にも分かると思い込んでしまう場合がみられます。長編の作品だからこそ、細部に気を配り、手を抜かないでほしい。書きながら物語に入ったり出たりする、書いている本人とあかの他人の子ども、つまり客観的な立場の双方を行ったり来たりすることを、何百回も何千回も繰り返して続けていただいてみてほしいと思います。

斎藤 惇夫
これから作品を書く人は「物語の地図」を書いてほしいと思います。そうすれば書き手自身も地図をなぞりながら書くことができるのではないかと思っています(笑)。
私も脇さんの意見にまったく賛成です。自分が子どものころ、読んでおもしろかった本だとか、出合った事件ですとか、感動したこととか、そういう自分自身の心の広がりを大切にしてほしい。河合先生のおっしゃった言い方をすると、ファンタジーでしか描けないような世界をもっと大切にしてほしい。そして、自分自身のことをもっと大切に愛して書いてくれたら、それを目に見える形で我々に伝えてくれるなら、それは他の子どもたちに対する愛とも一緒になっていくだろうと思います。
自分自身に対する思いを大切にして懸命に書いてほしいと思います。

工藤左千夫
来年は、当センター開設十五周年を迎えます。この記念の年にぜひ大賞がほしいと思います。


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