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ドーンDAWN9号

2001年11月11日発行
古市 卓也
略歴
1961年生まれ 40歳 神戸市在住
1988年 甲南大学卒業。第4回ファンタジー大賞奨励賞授賞「鍵の秘密」
「いる家族いない家族」
四百字詰原稿用紙換算枚数・468枚

▼受賞コメント
このたび審査の先生方に読んでいただいた作品ができあがるまでには、ちょっと面白い経緯がありました。
僕は、あらかじめストーリーを組み立てておくということができません。そのため、冒頭の状況を設定したあとは、これをたどっていくと面白いことになりそうだぞという予感だけをたよりに書き進んでいきます。いきおい、僕はたどるべき話の筋をしばしば見うしない、登場人物たち共々とほうに暮れて立ち止まることになります。もともと自分の頭の中でこしらえたものではあるのですが、僕にとって物語を見うしなうほど恐ろしいことはありません。それまで歩いてきた道がぷつりととだえて、足元にいきなり底なしの穴が口を開けたような気持ちになるのです。うろたえてあたりをきょろきょろ見回したり、来た道を後戻りしてみたり、もうだめだと絶望してみたり、と、そのうちどこかにわき道が見つかるのですが―。実は、こういう創作方法には以前から疑問を感じていました。と言うのも、これでは行きあたりばったりに話が進んでいくことになりますし、恐れから、どうしても無難な解決策にすがろうとしがちになるからです。
とはいえ、他に手があるわけではないので、今回の作品もやっぱりそんなふうに書いていました。ところが、途中でふとあることに気づいたのです。あることとは物語の結末で、具体的に言うと、登場人物の幽霊の正体がこれこれだった、とわかるというものでした。結末がわかれば、そこにいたる道筋もはっきりしてきます。これでまよわず書いていけるぞ、と思ったのは、でも、ほんのしばらくの間だけでした。何を書くかはわかっている、なのにさっぱり筆が進まなくなってしまったのです。それでも無理やり結末までこぎつけたところで、僕はまたあることに気づきました。この物語はここで終わるのではなさそうだぞ、というわけです。幽霊もこれで消えてしまうわけじゃない。ためしに、結末だと思っていた場面に続けて、幽霊がおこっているところを書いてみました。幽霊がどなり声をあげます。「なに? これでおしまいだと?」
そしてまた物語が動き始めました。
息をふきかえした幽霊のあとを文字で追っていくと、悪ふざけのような、お祭り騒ぎのような展開があらわれ、それまで鬱々と書いてきた僕をとても喜ばせました。この物語をそんなふうににぎやかに終わらせるなんて、考えてもいなかったからです。
結末がわかってしまうと書けなくなるのに、考えてもいない結末になら書き進んでいけるとは、どういうことでしょう。僕が物語を手引きしようとするとうまくいかなくなり、物語が僕を手引きするにまかせれば先へ進める。とは、つまり、僕より先を物語が歩いているということでしょうか。おかしな話ですが、今はそう考えています。物語を信じて、恐れずにそのあとをついていけばいいのだと。

河合 隼雄
選考委員長
臨床心理学者/絵本児童文学研究センター名誉会長
●世界的な臨床心理学者として著名であり、著書多数。豊富な臨床体験と東西文化
の比較、ユング心理学等の深い洞察を通して独自の世界を構築中。
奈良市在住

ルールを明確にすることは、ファンタジー全体の筋金として大切
今年は、しばらくぶりに「佳作」が出現、嬉しく思った。佳作の受賞者、古市卓也さんはかつて奨励賞を得た人だが、その後の精進が実を結んで今回の受賞となったのは素晴らしい。心からおめでとうと申しあげたい。
古市さんのこれまでの作風からすると、今回は肩の力が抜けていて、すいすいと読んでゆけた。タイトルの「いる家族いない家族」はもう一工夫していただきたいと思う。内容の軽妙な味とズレている感じがする。
実在の人間と幽霊とのからみ合いから生じてくる、何ともいえぬユーモア。幽霊の現実から見ると、人間の普通の生活が違った姿で見えてきて、現代人の生活に対する批評になったりしているところが、なかなか巧みである。
幽霊の生活そのものも結構面白くて、随所にユーモラスなところがでてくるが、著者がそれに酔って、不必要に長くなっている感じがした。ディテールの描写はいいのだが、それぞれが全体としてもつインパクトになると弱い感じがする。
幽霊などの存在をこの世に入れこんでくるとき、幽霊は人間と異なり、~は可能だが、~は決して出来ないという「ルール」を明確にすることは、ファンタジー全体の筋金として大切なことだ。この作品では、そこが明確になっていないので、それが作品全体としての力を弱くしている。いろいろと楽しんで読み終わった後で、それでほんとうは何を言いたかったのと言いたくなるのである。
上仲まさみさんの「ガラスの迷子たち」、潮坂かおるさんの「虹の向こうに」は共に、思春期の少女の内面を描いたものであり、最後まで読ませる力をもっている。少女の内界を言語によって表現することは非常に困難であり、ファンタジーという形式はそのためにふさわしいとも思われる。前者では、ファンタジーの世界のなかのエツという少女、後者では、アメリカ生れの人形が、内界の住人として活躍し、そして、どちらも話の終わりには姿を消してしまう。なかなか簡単には把握し難い少女の世界を描くための工夫として、これらはなかなかいいアイデアと思うが。お二人とも、現実をしっかりと見る目が少し不確かなので、せっかくのファンタジーが生きて来ない。
これは少女マンガの傑作を描く人たちが、あんがい絵が下手なのと軌を一にしていることかもしれない。
カニグズバーグ『魔女ジェニファとわたし』はファンタジー作品ではないが、少女の内界を巧みに描いたものとして参考になるだろう。「現実」のこととして、これほどうまく内界が描かれるのだ。現実の描写が的確にできないと、ファンタジーの傑作は書けないのだ。ということをよくよく認識していただきたいと思う。
工藤 直子
選考委員
詩人
●詩・童話を中心にエッセイ・翻訳の分野でも活躍中。
著書『てつがくのライオン』(理論社)『かぜのこもりうた』(童話屋)『しりたがりのこひつじ』(偕成社)『ゴリラはごりら』(童話屋)、最新刊は『のはらうたⅣ』(童話屋)
静岡県在住

ファンタジーの中の現実感
今回から選考委員として参加することになりました。 最終選考に残った三編を読むとき、わたしは「読者(かつて「子ども」であった)として、どう読むか」というポジションと、「書き手として、自分ならどうするだろうか」というポジション、そのふたつの立場で読むことにしました。
まず、略歴、あらすじなどは後まわしにして、「本を手に取った」時の感じで、読む順番は、あいうえお順で読みました。
上仲まさみさんの「ガラスの迷子たち」、潮坂かおるさんの「虹の向こうに」、古市卓也さんの「いる家族いない家族」、それぞれに面白く読みました。
読みながら、しきりに思ったことは「ファンタジー的現実感」ということです。 今回の三作品には、それぞれ、この世に思いを残して現れる女の子「エツ」(ガラスの迷子たち)、少女の形をとって現れる、人形の精ともいうべきカタリナ(虹の向こうに)、古い屋敷に住み込んでいる幽霊一家(いる家族いない家族)などが、いわばまあ「ファンタジーとしての主役」です。(今回は、霊というか魂というか、そんな登場者が勢揃いですね)
彼らが、どう登場し、読み手をどう物語に引き込むか……そこが、書き手が各々の持ち味を発揮して腕を振るうところだと思います。……なにしろ「普段なら考えられない」場面を、ごく「当たり前」のように読者の心の中に展開させようというのですから。
つまり、「日常の現実」から読者を引き剥がし「異次元の現実」に連れていくわけで、なまなかのリアリティじゃ読者はついてきてくれません。
よくやりがちなのは、「するとどうでしょう」の一言で、場面を一気に変えて異次元に持ち込もうという、いわば「異次元移動のための常套句」を使うことです。
といっても場面転換に、長々と字数を費やせばいい、というものでもない。(ここが、書き手としても四苦八苦するところですが)
長く読み継がれ、愛されている作品には、この「ファンタジー的現実感」が、見事に溢れている。まるで、作中人物のすぐそばにいるようで、息づかいや肌触りまで感じます。 そういう作品に出会ったとき、読み手としてのわたしは、夢中になって本に入り込み、息もつかずに読み終えます。そして、いままで気づかなかった新しい感情や感覚を、自分の中に発見します。(その時の嬉しさ!)
そして、書き手としてのわたしは、作品文中の、どの部分が「異次元の現実」に切り替わるポイントになっているか微細に調べます。
自分が書くときも、読み手から書き手へ、書き手から読み手へ……の選手交代を、納得いくまで繰り返して仕上げようと試みます。 三作品を書かれたみなさんは、どのような試みをされつつ作品を仕上げられたのでしょうか。どうぞ自分自身の「作品チェック法」を獲得して、読者を魅了してください。
今回の作品で興味を持った部分、気になった部分を書きます。
「ガラスの迷子たち」=現実を生きる少女が幻の少女との関わりの中で、新しい自分、新しい視点を獲得していく、という点に惹かれました。大阪が舞台ということでの、風景描写や会話の雰囲気が、もっと書き込まれれば、そして、特に「おばあちゃんの創作作品」がより生き生きと描かれば、と思いました。
「虹の向こうに」=人形に、女の子は独特の感情移入が出来ます。その感じがよく出ていて惹かれました。時代背景や、戦時中の感覚に、より個人的なリアリティがあれば、また焦点をもっと絞りこめば、と思いました。
「いる家族いない家族」=ユーモラスな語り口に誘われて、いつのまにか幽霊家族の中に入り込み、わくわくしながら、読み進みました。より魅力的なタイトルが欲しい、「幽霊世界」についての、作者独自のユーモラスなルール(アシモフが、ロボットものを書くときに提示した「ロボット三原則」のような)があるといいな、などと思いました。
そして三作品の中では、「いる家族いない家族」に、最も惹かれました。本作品が「佳作」を受賞したことを嬉しく思います。
最終選考に残られた皆さんをはじめ、今回応募して、残念ながら選にもれた皆さん、そして、これから応募しようとされている皆さん、どうぞ、あなたにしか描けないユニークな「ファンタジー的現実感」を手中にして、読み手のわたしを夢中にさせ、書き手のわたしを(ああ、こんな描き方もあったのか)と口惜しがらせる作品を読ませてください。 楽しみにお待ちしています。
斎藤 惇夫
選考委員
児童文学作家
●長年福音館書店の編集責任者として子どもの本の編集にたずさわる。
2000年より作家活動に専念する。
1970年『グリックの冒険』(アリス館牧新社:現在は岩波書店)で作家としてデビュー。
著書『僕の冒険』(日本エディタースクール出版部)、『なつかしい本の記憶』(岩波書店)の中の「岩波少年文庫と私」、『現在、子どもたちが求めているもの』(キッズメイト)
さいたま市在住

物語が生きているか否かは、「そこに吹く風」の問題
物語が生きているか否かは、最終的にはそこに吹く風の問題なのですが、まずは暑かった今年の夏、一陣の風を送って下さった三人の作者に感謝します。いずれも力作でした。
上仲さんと原田さんが主人公の秋と春奈を通して挑んだのは、あの『ねむりひめ』の、問題の15歳、まあ今では栄養がいきとどいているので14歳、周囲も、本人も自分をどう取り扱っていいのか分からない中学一年の女の子です。お二人は、町中の「紡錘を焼き捨てたり」、主人公を「死なせたり」「眠らせたり」せずに、様々な仕掛けを用意しながら、おばあさんの死によって突然生じた、自分とは何か、自分がいる場所はどこか、自分が戻る場所はあるのか、といった重い問いの前でうろたえる今の14歳にひたひたと迫り、あわよくば主人公に、王子の目覚めの口づけを贈ろうと試みます。お二人の主人公を見る目はやさしく、悩み、彷徨いながらも懸命に生きていこうとする主人公たちの姿は、時にそのため息や悲鳴や、笑い声も聞こえてくるほどに描かれており、お二人の力量のなまなかでないことを示してはいるのですが、どうも物語全体としては、風がとだえがちで、清風胸中を過るところまではいっていません。それは、肝心の、秋の前に現れ、秋が自らを知る鍵を与えてくれたエツ―幼児虐待にあい、家出をし、あっけなく殺され、未だ成仏できずにこの世を彷徨いつづける少女―と、春奈が自分のまわりの人や世界を認識していくきっかけになったカタリナ―戦時中に、殺されかかっていたところを救われたアメリカ生まれの人形の化身―の描き方にあったようです。エツはまるで新聞の三面記事のように薄っぺらにしか語られていません。そのために、秋は自分が未だ経験していないエツによって自分を知り、母親や新しい父親を理解しようとし、おばあさんが自分に残してくれた物語のつづきを書いたりするという構図になります。母親や父親が型としてしか描けていないこと、おばあさんと秋の書く物語があまりに陳腐なことは、エツの描き方に原因が求められます。また人形の化身カタリナが長編の中で生きつづけるためには、相当な工夫、設定が必要なのに、あまりに当たり前にこちら側の世界が描かれているために、その存在自体が「気紛れ」に思えてきます。戦争が曖昧にしかも単純にしか捉えられていないこと、人形にかかわった人たちの戦後の50年が、これまた単純な型としてしか描かれていないこと、これは、カタリナの描き方に問題があったのです。つまりお二人は、ご自分で仕掛けたファンタジーという罠にかかってしまったというわけです。もしもお二人が、エツとカタリナを、終始実在の人、人形としてのみ秋と春奈の前に登場させていたらどうなったのか。おそらく、作者が何故14歳を描かなくてはならなかったのか、それが他ならぬ作者自身に鮮明に見えてきたはずで、物語から曖昧なところが削ぎ落とされ、もっと鋭く14歳に迫ることができた、そう思えます。残念至極です。
古市さんは、幽霊の一家をゆったりと精妙に描いて、もうひとつの世界を作りだすことに成功しました。笑いは横溢しているし、言葉遣いは正確で快く、神が宿るはずの細部は精緻に現され、主人公たちの性格も描き分けられていて、なによりも幽霊の世界に吹く風が爽やかで、この歓びを早く子どもたちと分かち合いたいと思いました。間違いなく、新たな子どもの本の書き手の登場です。幽霊たちの住む家の全体があまりよく見えてこないこと、幽霊の家に同居する人間、とりわけ子どもと父親の変化・成長がまだ十分には捉えられていないこと。その二点が描けてさえいたら、物語の最後、幽霊と人間の双方が望む引っ越しは、胸迫る別れとなったはずですし、細部だけではなく物語全体が大きな風、感動となって子どもたちを包んでくれたはずです。大賞ではなく佳作として推す所以です。
脇 明子
選考委員
評論家/翻訳家
●ノートルダム清心女子大学教授。大学で児童文学の講座を担当。
著書『ファンタジーの秘密』(沖積舎)『おかぐら』(福音館書店)
訳書「不思議の国のアリス」(キャロル著 岩波書店)
「ムルガーのはるかな旅」(デ・ラ・メア著 岩波書店)
「ぐんぐんぐん」(マレット著 岩波書店) 岡山市在住 

作者自身の考えをしっかり!主人公自身の問題をはっきり!
過去三年、心浮き立つ作品にめぐりあえず、もどかしい思いだったが、今回の「いる家族いない家族」で、やっとファンタジーを読む楽しみを味わうことができた。この作者は以前から文章力に秀でていたが、そこに温かいユーモアの磨きがかかり、空き屋敷でのどかに暮らす幽霊一家を紹介した冒頭部分など、だれかに朗読して聞かせたくなったほどだ。幽霊の食事などといった細かい問題のクリアの仕方も、単に矛盾を感じさせないというだけでなく、ちょっとした風刺やしゃれた思いつきがいい味付けになっていて、何度もくすくすと笑わせてもらった。
もっとも、物語全体の展開は、細部のおもしろさから期待したほどにはなっていない。短編なら、登場人物の魅力と意表をつく事件の珍妙さだけでも楽しめるが、長編となると、大きな問題の解決や人間的成長といった背骨がないと、心からの満足は得られない。ところがこの物語では、空き屋敷にしがないサラリーマン一家が引っ越してきて、それを迷惑がる幽霊一家とのあいだにさまざまな交流が生じるものの、それが人間たちの生き方を変えたり、幽霊たち自身の失われた過去を明らかにしたりといったことには発展せず、また引っ越しということになって、すべてがふりだしにもどる。たしかに両家のお母さんたちだけは少し変化し、そこがほほえましい読みどころになっているが、お父さんや子どもたちがろくに変わらずに終わったのには、もったいない気がしてならなかった。
とはいえ、浮世離れした幽霊の視点から、人間の暮らしをながめなおすというのは、ファンタジーをちゃんと育ててそれを足場にしないかぎり、決してできないことである。それをしっかりやってのけて、素直に楽しめる物語に形作っただけでも、おおいに評価していいと思う。
あとの二作品、「ガラスの迷子たち」と「虹の向こうに」は、どちらも祖母をなくしたことを痛手と感じている少女の物語で、その少女が自分よりはるかに悲惨な状態にある別の少女に出会うという展開までが、不思議なくらいそっくりだった。「ガラス」におけるその少女は児童虐待と殺人の被害者で、いまでは幽霊になっており、「虹」ではふつうの人間ではあるが、一家心中の生き残りで、「大人はみんな敵だ」「たった一人で世界を呪う」などと言っているほどだ。だが、そんな悲惨な少女たちが登場すると、主人公たちのささやかな痛手などはどこかへ吹っ飛び、自分の問題に立ち向かうはずだった主人公たちは、友情によって友を癒すというお決まりの仕事に熱中することになる。しかし、リアルな人格を持てないままの主人公の友情くらいで、そんな不幸が癒されるはずもなく、結末はどちらもあまり釈然としない。
「虹」ではもう一人、実はアメリカ製の人形である少女が登場し、それが一応ファンタジー的要素になっているが、この人形の材質が最後の最後にセルロイドだと説明されるまでさっぱり見えず、人形としてのリアリティが感じられないのは、人形ファンタジーとしては基本的な難点である。人形が人間化するときのルールにも、一貫性が欠けすぎている。また、この人形が戦争中に「鬼畜米英」の片割れとして処分されかかった事件を中心に、戦争の問題を大きなテーマとしているが、それに関する説明や意見はどれも切り貼りめいていて、作者自身がしっかり考えたことを基盤にしているとは思えなかった。
「ガラス」のほうは、失われつつある古い商店街を描いた導入部などは、情景が目に浮かんで悪くなかった。だが、お好み焼き屋をしながら人形劇団のリーダーでもあったという祖母の姿はいっこうに焦点を結ばないし、その祖母の遺作を少女が仕上げたという設定で最後に紹介される人形劇の台本も、お決まりの「泣かせる話」でありすぎて、もともとはっきりしない主人公自身の問題を、ますますぼやけさせる結果になった。
中澤 千磨夫
選考委員会幹事
北海道武蔵女子短期大学教授/絵本・児童文学研究センター評議員
●日本近代文学から映像論と守備範囲は広い。著書に『荷風と踊る』(三一書房)など。
相米慎二監督のあまりに早すぎる死に呆然。監督に直々送ってもらったビデオで相米論に着手した矢先だった。
小樽市在住。

ユーモアやナンセンスというものは、醒めているからこそ生まれてくる
大賞には届かなかったものの、久しぶりに佳作受賞作が出たことを喜びたい。古市卓也さんの「いる家族いない家族」は、この四年間の精進で少しだけ壁を越えたようだ。「鍵の秘密」(1998年、第4回奨励賞)、「ほんとうの木曜日」(1999年、最終選考落選)、「本の中の空」(2000年、第3次選考落選)と、毎年400から600枚の長編を書きついできたねばりが実った。
「いる家族いない家族」の魅力を語ろうとすれば、どうしても具体的細部に触れなければならなくなる。内省する語り手とでも呼んでみたい。冒頭早々「正確には」、「いうべき」、「ようするに」、「ほんとうは」、「とは言え」という具合に、語り手自身が自分の言葉を反芻するうち、読み手も独特なリズムに引きこまれてしまう仕かけになっている。さらに、「材料は、ない肉や、ない魚や、ない野菜で、いくら使ってもなくならない上に、そのあるかないかの微妙な味わいは」といった軽妙な語感が醸成するリズムや天性のユーモア感覚によって、私たちは豊饒な言葉の海にたゆたうことになる。引っこしてきた人間について、幽霊は「なぜうちに化けてでたんでしょう?」などという。幽霊のおかあさんが消えいりそうになると、おとうさんが「なんとかこの世にひきとどめました」とくる。ユーモアやナンセンスというものは、醒めているからこそ生まれてくる。世界と距離をとっているのだ。作者の絶望は深いのかもしれない。物語の終わり方に自己言及し、おしまいがはじまりにつながるというウロボロス的冒険も小気味よい。私たちははたして幽霊を見ることが出来るかという問いが提出されているかのようだ。
古市さんには長さを気にしないところがあるのだろう。というより、言葉が次々と自己運動していって、それを作者自身が楽しんでしまうという癖があるのかな。ストーリーの展開やプロットの驚きで読ませるというのではなく、細部の魅力や言葉の過剰なまでの運動で読ませるのが古市さんの身上だ。私はその饒舌さもまた物語の豊かさだと思える読み手なのだが、やはり一方で小説としての結構もまとめていかねばならないとすると、古市さんが越えなければならない壁はやっかいだ。つまり体よくまとめようとすれば、小説/饒舌の力を損ないかねないからだ。でも、古市さんはきっとその隘路をくぐり抜けてくれるに違いない。
上仲まさみさんの「ガラスの迷子たち」。「エツと秋の物語」という副題はくどい。おばあちゃんがどのように亡くなったのか分からないのは不審だ。なにより最後の人形劇があまりにも甘い。すぐさま宮澤賢治の「よだかの星」や「なめとこ山の熊」を想起するが、賢治の場合、「蜘蛛となめくじと狸」のような激しい葛藤の上に成りたつ「敵対的な共生」(赤坂憲雄)と呼ぶべきものなのであって、ここに見られる安易な命のつなぎなどというものではない。だが、それよりもいけないのは稚拙で陳腐な表現があまりに多いことだ。「不良というレッテルを全部、ひとりで背負っているような少女」、「親の仇に真剣勝負を挑む若侍」はないでしょう。「優等生モード」とか「学校的に優等生」とかいった今様(笑)の言葉を地の文で使ってしまう作者の言語感覚には目を疑う。会話で使うことは構わない。地の文でも語り手の語用に必然性があるのなら別だが、この作品ではそうなっていない。もういい年をした作者がと思うと、驚きを禁じえない。とはいえ、この作品からは少女の混沌と悲しみが伝わってくるのが救いだった。
潮坂かおるさんの「虹の向こうに」はどうにもいただけない。筆名の甘ったるさ。それに加え、タイトルが与える生ぬるい印象が読み手をくじく。作品世界もまた微温的で、少しは印象に残るかというたんぽぽ宿や中野洋子の存在も後半稀薄になってしまう。人形・カタリナの人としての命がなぜひと夏なのかも納得しがたい。なによりいけないのは定型的で薄っぺらな歴史観。いわゆる自虐史観だから駄目だというのではない。登場人物も語り手も皆ひとしなみの見方しかしておらず、陰影に富んだ相対性のかけらもないことが物語をつまらなくしているのだ。
工藤 左千夫
選考委員会代表幹事
絵本・童文学研究センター理事長
●生涯教育と児童文化の接点を模索するために絵本・児童文学研究センターを開設(平成元年)。会員数は全国で1000名を超え、2年半にわたる基礎講座(全54回)を開講するとともに多様な公益事業に取り組んでいる。
小樽市在住

作品は優れた編集者との出会いによって輝きを増す
本賞のコンプセプトは、第1回目から一貫している。それは「大人と子どもの狭間で悩む人間群像」である。現代の複雑な時代において、子どもの世界だけがそれと無縁ではありえない。そして、本センターは、悩みつつとにかく生きている子どもたちを多く見続けてきた。
壁の越え方は千差万別である。「楽しい」という感覚、読書による通過儀礼の間接体験(感動体験)、そして西欧的な「ホメオ・パテー」(周囲の厳しい状況を知ることによって、今の自分はそれほど厳しいわけではない、という心理的感覚)など、様々である。人間の心はあくまで個別的なので、どれがもっともよい方法なのかはわからない。
優れたファンタジーの古典の多くは、「大人と子どもの狭間で悩む人間群像」を扱ってきた。スタンダードなパターンは「分離→周辺→統合(最近では、全体性の回復もしくは関係性の回復)」である。このパターンは自立欲求(自我確立の欲求)が活性化されるときに生じる不安定な心理(依存欲求―自我確立の欲求)のひとつの越え方であった。分離とは依存対象からの分離である。必然的に周辺領域では自らの力で立ち向かう冒険(内的世界)の物語となる。そこで生じた自らの潜在的力(人間的力)の覚醒を経て、もとの場所へと戻るのである。これはトールキンの『ホビットの冒険』以来のスタンダードなパターンである。そのため、『ホビットの冒険』の原タイトルは「ゆきて帰りし・・・・・・」なのである。
上記の観点が第1回目からの本賞のコンセプトである。特に第3回大賞の『鬼の橋』(福音館書店)では、後日、中学生対象の全国読書感想文コンクールで総理大臣賞を受賞し、かつ佳作のほとんどが『鬼の橋』であった。本賞のコンセプトは本賞の回数を重ねようと厳として生き続けている。
そのような観点で、最終選考会に提出された作品群を眺めるとどうであろうか。
「ガラスの迷子たち」「虹の向こうに」などは、本賞のコンセプトとかなり近いものがある。しかし、今までの大賞、佳作に比較するとファンタジーとしての「物語性」にはかなりの無理がある。また、文章表現やディテールにおいても今一歩。
今回、佳作を受賞した「いる家族いない家族」は本賞のコンセプトととしてはそぐわない。しかし、上記2作品に比して、物語性や文章表現、ディテールなどは一歩先に進んでいたし、可能性を感じる。その可能性が佳作受賞の因である。過去、第1回の佳作『タートル・ストーリー』(理論社)が刊行されたとき、作品は優れた編集者との出会いによって、輝きが増すと実感した。今回の佳作もそのような道筋を辿るかもしれない。ただ、本賞のコンセプトに合わせて、この作品を出版しようとすると、著書の文学に対する根本的な考え方を含めて大幅な手直しが必要とされるだろう。そこのところを乗り越えることが作家の道の第一歩ではないだろうか。


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