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ドーンDAWN11号

2003年11月16日発行
第9回 児童文学ファンタジー大賞選後評特集号

 大 賞  該当作品なし
 佳 作  「かはたれ」 朽木  祥
 奨励賞  該当作品なし

第九回児童文学ファンタジー大賞の公募は2002年10月から2003年3月31日までの期間で行われた。(第10回は2004年3月31日締め切り)応募総数216作。
1次選考において27作、2次選考では6作が通過、3次選考会においては次の3作が候補作に決まり、最終選考委員にそれらの原稿を送付した。

 小林 栗奈 「幽霊保険」
 橘  龍一 「弥生の海峡」
 朽木  祥 「かはたれ」

最終選考委員会は河合隼雄(委員長)、工藤直子、斎藤惇夫、脇明子、中澤千磨夫、工藤左千夫の各氏によって構成され、2003年9月21日、小樽にて開催された。
選考会は、大賞推薦の作品の有無から始まり、結果としては大賞は該当作品なしということで、全選考委員の意見が一致した。
続いて、佳作の選考審議に入り、朽木祥「かはたれ」が本年度の佳作に決定した。
朽木  祥
鎌倉市在住  46歳
上智大学大学院修士課程修了
「かはたれ」
四百字詰原稿用紙換算枚数・198枚
佳 作「かはたれ」 朽木 祥

▼受賞コメント
「金色の林檎」
「妖精物語の中で林檎が金色をしているのは、われわれが林檎の色を初めて認識したときの驚きを思い起こさせるためなのだ」とG・K・チェスタトンは言う。
この世界はかかる〈驚き〉に満ちている。閉塞的な現代社会を生きる子どもたちにその驚きの瞬間を思い出させ心を開く鍵があるとすれば、それこそが想像力であり、不思議や魔法を夢見る力に違いない。ファンタジーとはいわば金色の林檎そのものなのだ。
昔、世界の果ての国で勉強していたころ、家主夫人が毎晩窓辺にお粥を置いていたのを思い出す。忘れると妖精が悪さをすると言う。家の裏手には妖精の通り道があった。踏み入らないよう誰もが用心して歩いたものだ。
さらにその昔、「お狐さんにまた、たばかられた」と祖母が嘆いていたのも思い出す。同じところをぐるぐる歩かされたと言うのである。深い山の中の話ではない。爆心地から数キロの、焼け残った竹藪のできごとである。(思えばその狐はかつてない災厄を祖母たちとともに生き延びたことになる)
この世界はかかる〈不思議〉にも満ちている。人の心や身の回りにごくあたりまえのようにひそむ不思議や魔法がある。それに気がつかないのは私たちの心がどこか閉じてしまって、耳に聞こえない音楽や目に見えない絵が届かなくなってしまったからに違いない。「かはたれ」を書きながら、私はこのようなことを繰り返し考えた。
「かはたれ」の主人公の少女は、日常の〈驚き〉にのびのびと心を開いていたのに、母親の死をきっかけに自分の感じ方に自信が持てなくなってしまう。しかしふと迷い込んできた〈不思議〉な存在との関わりによって再び善きものや美しいものに心を解き放っていく。善きものはたいてい美しく、心に落ちるものには魔法とでも呼ぶしかないものが働いている。そんな魔法を描くのにファンタジーよりふさわしい文学形式があっただろうか。
幼い我娘や私自身が、ファンタジーの世界をどれほど楽しみ励まされたかを思うたび、(力不足に屡うなだれつつも)心をこめて書き続けたいと願わずにはいられない。
ささやかな物語に授けて下さった光栄に心から感謝し、これからいただくご講評を糧として、金色の林檎をゆっくりと実らせていきたいと思う。

河合 隼雄
選考委員長
文化庁長官
臨床心理学者/絵本・児童文学研究センター名誉会長
● 世界的な臨床心理学者として著名であり、豊富な臨床体験と東西文化の比較、ユング心理学等の深い洞察を通して独自の世界を構築中。近著には『神話と日本人の心』(岩波書店) 奈良市在住

久しぶりに「佳作」の出現 来年は「大賞」が出現しそうな予感
今回は久しぶりに「佳作」が出現。残念ながら大賞には至らなかったが、才能ある書き手が現われ、大変嬉しく思った。
朽木祥「かはたれ」は一気に読め、好感をもって読了した。全体を通じてのユーモア感覚もよく、河童の名前の「八寸」に示されているように、読みながらほほえみが浮かんでくるところが、あちこちにあった。
私としては、麻という少女が母親の死後、われわれの専門用語でいう「離人感」に悩まされ、そこから脱け出してくる過程がよく描かれているところに、感心させられた。
「離人感」というのは、思春期によく発生する、「現実が現実として感じられない」という症状で、本人が言わない限り、外から見てまったくわからないし、本人も自分のその状態をうまく伝えられない、というもどかしさがある。これが高じてくると、離人症というなかなか治りにくい神経症となり、自殺に至ったりする。
少女の内界におけるこのような苦悩は、なかなか言語では表現し難い。敢えて表現するならば、河童が猫になったりするような途方もない物語に頼るより仕方がないのではなかろうか、と私は思っている。
麻が一人の少女として日常に経験していることと、内界に生じている河童の物語と、これをあるひとつの視点から描くことによって物語をつくりあげるのは至難の業である。どうしても焦点が二つあるのだ。
麻か八寸か、どちらかを主人公として、物語をつくるのか、あるいは、村上春樹が最近作の『海辺のカフカ』に試みたように、同時平行的に生じる異なる物語が一点で切り結ぶようにするのか。
このような試みがうまく成功すると、それはおそらく「大賞」に届くほどの作品になるに違いない。朽木祥さんは、おそらくそのような期待に応えてくれるだろう。今後の精進が待たれるのである。
小林栗奈「幽霊保険」は、この作者に考え直していただきたい点を、もろに示している作品であった。「文学作品」を書くことの重みについて、もう一度根本から考え直して欲しい。思いつきの面白さで、さあーと書くのは「ヨミモノ」としてはいいかも知れないが、人間のたましいにかかわってくる文学作品にはならないのである。この点では、児童文学も大人の文学も何も変りはないのだ。
橘龍一「弥生の海峡」は、ファンタジー作品ではない。それでも着眼点のよさと、いろいろ調べての努力などを評価して最終選考に残ったのだと思う。しかし、これを歴史小説として読んでも、あまりにも安易で物足らない。弥生と縄文の接触という歴史的な大事件を取り扱うには、たとい歴史として見るにしろ、相当な想像力を必要とする。それにしては作者の想像力が弱すぎるのである。
来年はファンタジー大賞の第十回である。この切りのいいときに、大賞が出現しそうな予感を私は抱いているのだが、どうかこの予感を満足させる作品が、来年はわれわれの手許にとどくようにと願っている。

工藤 直子
選考委員
詩人
●詩・童話を中心にエッセイ・翻訳の分野でも活躍中。
著書『てつがくのライオン』(理論社)、『のはらうたⅠ~Ⅳ』(童話屋)、『こどものころにみた空は』『象のブランコ-とうちゃんと』(ともに理論社)、『工藤直子詩集』(角川春樹事務所) 伊東市在住

タマネギの外皮
久々に「佳作」に出会えて嬉しかった。思わず引き込まれて読む楽しさは、なんともいえない心地よさです。いい作品に、これからもどんどん出会いたい。そのために、応募される方に、日頃自分が書いていて感じたことをお伝えしたいと思いました。なんらかの参考になればと願って。
そこで今回は、個々の選評は他の選考委員におまかせして、「ファンタジーと言葉」についての考えを書くことにします。
 ‥‥‥‥‥‥
「あらお出かけ? どちらまで?」
「ええ、ちょっとそこまで」とか、
「郵便局には、どう行けばいいでしょう」
「あそこの角のたばこ屋さんのところを右に曲がって三軒目です」とか……、
日常の用を足したり意志を伝えたりするのに、私たちは「言葉」を使って会話します。
毎日毎日、どれくらい「言葉」で文を組み立てて話していることか。会話相手の使う言葉も聞くわけだから、おしゃべりの私は、膨大な量を発言したり浴びたりしているんだなあ。それを何十年も続けているのだから、自分の「言葉の使い癖」ができるわけだよなあ、と思います。
日頃の会話だけでもこうです。手紙やレポートを書いたりする。テレビ、新聞雑誌などを見たり読んだりする。という言葉環境も加えると、私はまるで、タマネギの皮のように何枚も何枚も日常語を着込んでいるのです。
日常語は、今私がいる「現実の世界」で生きていくのに必要な、そして大切な言葉群です。それがそのまま「日常の私」をつくっていると思うから、丁寧に使い、自分なりに磨いていきたい。
しかし、さて、この「ファンタジー大賞」です。もし私が応募したくなるとしたら、それはどんなときか?
日頃の私―「あらお出かけ? どちらまで?」という会話をしている自分―の奥の、見えない部分に隠れている「もう一人の自分」に出会いたい、その見えない自分が感じているものを皆にも見てもらいたい! と切実に思ったときです。隠れている見えないものを探しあてるためには「ファンタジー」という形が必要だと思うから。
というわけで私は、自分の芯にひそんでいるものを取り出そうと、テーマを決め、ストーリーを考えます。
さあ、テーマを決めた。物語の流れも主人公も決まった。いざ書くぞ! というとき、私の前にたちはだかるのは、タマネギの皮のように身についた「言葉(日常語)の使い癖」です。
壮大なファンタジーという建築物も「言葉」という煉瓦を一個一個積み上げてつくります。その、基礎となる煉瓦が「あらお出かけ? どちらまで?」的素材だとしたら……。私の芯に隠れているものは、けっして姿を現してくれないでしょう。
ということで、私の場合、書くということは「書き進む」というより「書き捨てる」作業が大部分を占めます。分厚く包んでいるタマネギの外皮を、書き出すことで捨てていき(不思議ですが、実際に書き出してみなければ捨てられない)、やっと芯にたどりつくわけです。
現実世界で使っている言葉の煉瓦を捨てて初めて、ファンタジー世界を(まるで現実のように)築く煉瓦が手に入ると、私は信じています。
応募されるあなたが、タマネギの外皮を脱ぎ捨て、自身の中に隠れている芯に出会われますように。

斎藤 惇夫
選考委員/絵本・児童文学研究センター顧問
児童文学家
●長年、福音館書店の編集責任者として子どもの本の編集にたずさわる。
2000年より作家活動に専念する。
1970年『グリックの冒険』(アリス館牧新社:現在は岩波書店)で作家としてデビュー。
著書『冒険者たち』『ガンバとカワウソの冒険』、『なつかしい本の記憶』共著(ともに岩波書店)、『現在、子どもたちが求めているもの』『子どもと子どもの本に捧げた生涯』(ともにキッズメイト) さいたま市在住

八寸先も闇か?
――「かはたれ」について 
河童の八寸が猫に姿をかえ、自分たちの存在を脅かすヒトの世界に降り立ち生きるための修行を積む、という書き出しを読んだとき、遠野の小鳥瀬川の姥子淵に姿を現して以来ぷつんと消息を絶っていたホンモノノ河童が、どうやら鎌倉に住む著者によって鎌倉近郊の公園で発見されたらしいことを知り、これは、前世紀のDNA以上の発見、新しいファンタジーの誕生かもしれないと思い心震えたのですが、一方ではこの著者はせっかく発見した河童を、僅か原稿用紙二百枚で存分に私たちにも見せてくれるのだろうか、という不安も同時に襲ってきて……、残念なことにその不安が的中してしまいました。
この物語には、構造上大きな欠陥があるように思えてなりません。それは、物語の冒頭では見事に、著者自ら発見した河童の世界を、河童の内側から描き、その河童の世界を危ういものにしているヒトは、あくまで河童の側から見たものとして相対化されて語られていたにもかかわらず、八寸が同居することになるヒトの麻が登場するや、あまりにも安易に病む麻の心の内と外の世界が八寸とは関わりのないところで描かれ始めてしまう。視点がずれてしまった、ということです。いかに麻の心の回復のためには八寸が必要であったにしても、八寸=河童の世界は、麻=ヒトから見られる存在、ヒトのために存在する下僕に成り下がってしまっているのです。ヒトに追い詰められ、その存在を抹殺されかかっていた河童が、ようやく再発見され、主人公として甦り、ゆったりと、時にユーモラスに語られ始められていたというのに。そればかりではありません。ヒトを抜きに、何の苦渋もなしに、河童を語る者が多い中で、この著者は、自ら発見した河童八寸をあえて、伝承の猿や獺ではなく、身近な親しい猫に変え、しかも、深く病む娘にその本質を見抜かせるという方法で、自ら発見した河童を子どもたちにも共有させよう、子どもたちの心に河童を甦らせようとしていたというのに、視点がずれてしまったために、それも十分にはかなわぬことになったのです。
つまり、あくまで自ら発見した河童の側から世界をヒトを見ることによって、この世を映し出す新たな視点を獲得しようとした作家が、あるいは、河童を描くことで未知なる世界を旅しようとした作家が、そして未知なる世界を旅している者として子どもたちに挨拶しようとした作家―――私はそれがファンタジーの作家と思います―――が、麻を登場させるとともに、突然フツウのお母さんになってしまった、と言ったらいいのかもしれません。河童は利用され御用済になると隅に追いやられ、ヒトの目から見た、単なる不思議なモノに変わり、結局物語はよくある父と娘の話に落ち着いてしまったように思えるのです。
一体八寸自身はヒトの中で何を知ったのだろうか? 何を生き抜くために修行できたのだろうか? 河童に未来はあるのだろうか? 八寸先も闇なのだろうか? どうも私はよく読み取ることができませんでした。それは結局、作者が何故、徹頭徹尾、八寸の感じる不思議や驚きや歓びや悲しみや絶望を通して、麻も、父親も、学校の先生も描かなかったのか、視点を変えずに物語らなかったのか、ということに収斂します。そうすれば、初々しい視点でヒトを捉えることが、新しい物語を生み出すことが可能だったはずだ、と思うのです。河童を発見した人のそれが責任というものではないでしょうか。
どうやら私は「かはたれ」を、長編ファンタジー「河童八寸の物語」の第一章として読みすぎていたようです。
脇 明子
選考委員
評論家/翻訳家
●ノートルダム清心女子大学教授。大学で児童文学の講座を担当。
著書『ファンタジーの秘密』(沖積舎)、『おかぐら』(福音館書店)
訳書『不思議の国のアリス』(キャロル著)、『ムルガーのはるかな旅』(デ・ラ・メア著) 『ぐんぐんぐん』(マレット著)、『クリスマス・キャロル』(ディケンズ著)、『雪女 夏の日の夢』(ハーン著)ともに岩波書店 岡山市在住

ファンタジーにはひとつ余分なむずかしさがある
ファンタジーを書くというのは、おそろしく体力のいる仕事だとしみじみ思う。リアリズムなら、自分自身の体験や実際にあったことを素材に、適当に潤色を加えるだけでも、いい作品ができる場合もある。しかしファンタジーの場合は、現実にはありえない要素が大きな位置を占めるのだから、それを含んでなおかつ納得できる筋書きを組み立てるためには、どこかがぐらついていれば最初から作り直し、また失敗しては角度を変えて試みるといった作業を、うんざりするほどくりかえさなくてはならないはずだ。
その結果、なんとか基礎になる骨組みができたとしても、それだけでは作品にはならない。物語がひとつの世界となり、読者がそのなかで生きているような錯覚を味わうためには、登場人物の一人一人、出来事のひとつひとつが、たしかな実感を伴って描かれていなくてはならない。リアリズムならそれがたやすいとは言わないが、ファンタジーの場合、たとえば魚になって泳いでいる実感や、べつの時空に投げ出された実感などを想像して書かなくてはならないのだから、ひとつ余分なむずかしさがあるのはたしかだ。
しかし実際には、現に出版されているファンタジーにさえ、その二つの課題としっかり取り組んで書き上げたとは言いがたいものが少なくない。候補作も同様で、たとえば今回の『幽霊保険』は、死後、幽霊になるための保険に加入する仕組みがわからないという点だけとっても、ファンタジーとしての基礎工事が全然できていない。それでも細部に実感が感じられれば救われるのだが、十二歳で死んだ少女が幽霊になってやりたいことがお菓子作りで、主人公である十五歳の少女と二人で、小半日のあいだに「焼きプリンと、アイスクリーム、ドーナツ、甘いパイ、キャラメルキャンディ」を作ったというのだから、安直すぎてなんの実感も湧いてこない。自分が十二歳で死んだとして、この世の食べものに残す思いがどんなものか、それをリアルに想像したとき、出てくるのはこんなおざなりなラインナップではないはずだ。
『弥生の海峡』は歴史物語であって、ファンタジー的要素は皆無なので、骨組みはそのぶん簡単なはずだが、考古学的知識がふんだんに盛り込まれているのに対し、物語を生きなくてはならないはずの登場人物たちに存在感がないので、まるで考古学番組のCG再現映像を見ているような感じだった。歴史物語を書く場合、考古学的知識などは作者が心得ていればいいのであって、その時代を生きる登場人物たちに「朝鮮半島から日本列島へ」などということが見えているはずはない。ここでも必要なのは、その時代の人間になったつもりで、何がどう見え、どう感じられるかを、実感してみることだ。
それに対して『かはたれ』は、父親と二人で暮らす少女、麻の実感はもちろんのこと、猫に化けた河童という奇妙な存在の実感までをも、随所にいきいきととらえていて、大きな可能性を感じさせてくれた。主人公である河童の八寸がなぜ猫に化ける必要があったのかはちょっとわかりにくいのだが、河童の長老が術をかけ、注意事項を言ってきかせるのを読んでいると、なるほど河童は猫になるのにむいているのかもしれないと納得させられてしまう。淡彩をほどこした鉛筆画のような文体に、品のいいユーモアがほどよいアクセントになっている。
ただし、物語の骨組みには注文をつけたいことがたくさんある。河童の側からはじまったのに、途中から麻のほうに視点が移ってしまったばかりか、麻のお父さんや保健室の先生までが自分の視点で語りだすのは興ざめだ。河童たちの世界と麻の世界を地理的な意味でもっと近づけ(池や沼と住宅地とがひとつの地図におさまるように)、たとえば一章ごとに八寸と麻に交互に語らせるようにでもして、両者の問題をからめながらいっしょに解いていくように構成できれば、読みごたえのあるすばらしい作品になるだろう。たいへんな力仕事だとは思うが、書くからにはぜひそこまでがんばってほしい。

中澤 千磨夫
選考委員会幹事
北海道武蔵女子短期大学教授/絵本・児童文学研究センター評議員
●日本近代文学から映像論と守備範囲は広い。著書に『小津安二郎・生きる哀しみ』(PHP新書)など。現在『日刊サッポロ』(月曜日発売号)に「銀幕の中の北海道」を連載中。
小樽市在住

賞が出ると審査員としても気勢が上がる
朽木祥さん、佳作受賞おめでとうございます。賞が出ると、審査員としても気勢が上がります。
朽木さんの「かはたれ――散在ガ池の河童猫――」はユーモアのセンスにあふれた爽やかな作品です。そもそもユーモアは冷徹に現実を見つめる態度から生まれてくるものです。ふわふわと浮ついたところからは出てきません。河童の八寸が修業のため人間世界にやってくる。しかも、猫の姿を借りてです。河童にとって水はなくてはならないものですから、猫になっても沢山飲まなければなりません。でも水に入ったりかぶったりするのは厳禁です。河童の姿に戻ってしまうからです。八寸の最初の危機からちょっと引いてみましょう。人間の少女・麻が八寸を風呂場で洗ってしまうのです。「八寸は真っ青になった。/とりわけ背中が。(略)河童は上目遣いに麻を見て泣き出しそうになった。/「は、八寸なの」/麻は口をあわあわさせながら聞いた。/「猫じゃないの、猫」/河童は闇雲に頷いた。/「猫なの」/河童は頷くばかりだった。/「河童じゃないよね」/河童なのだった」。ぜひゆっくり声に出して味わってほしい。 語り手が付け加える「とりわけ背中が」とか「河童なのだった」という軽みがとりわけいい。この飄逸さはたとえば落語の名人の語り口から生まれる独特の間のようなものですね。こういうリズムやセンスを身につけるのはなかなかのことではありません。世の中は不公平に出来ていますから、いいセンスにはどんどん磨きがかかりますが、語感がにぶい人には通じないことなのですね。
八寸をはじめとする河童たちは大体人間の十倍の寿命を持っています。つまり、私たちに逃れようもなく刷り込まれている人間中心主義とでもいうべきものの見方が、河童によって相対化されるという仕掛けなわけです。自分の見え方が絶対ではないこと。悲しいことにはじめからバイアスがかかっていること。そんなことを読者が学んでいくわけですね。
もちろん不満がないわけではありません。麻のお母さんの臨終に際し、お父さんが酔っていたことで、祖父母が立腹して疎遠になってしまうというのはいかがなものでしょう。死にゆく妻を見つめ、飲まずにいられないということでしょう。もしかしたら、朽木さんは酒飲みが嫌いなのかもしれませんね。八寸を人間界に送り出す時、河童の長老は八寸が河童に戻る危機を三度まで救ってくれる珠を授けます。読者とすれば、珠の力を使い尽くしてしまってからの八寸の活躍を期待するでしょう。しかし、危機は予定されたように三度までなのですね。私にはこれが物語構成上の大きな瑕疵に思えてなりません。選考会では大賞という声も挙がりました。好きだという意見が圧倒的でした。
橘龍一さんの「弥生の海峡」も好ましく読みました。しかし、語り手が現在の位置からありとあらゆることを説明してしまうのはうるさいことです。どうもお勉強をさせられているような気持ちになってしまいます。狩猟文化と稲作文化、縄文と弥生の衝突という大問題を描きながら、葛藤がちっとも伝わってきません。最後の戦いが米泥棒に端を発するというのもいかがなものでしょう。いかにも安っぽく、おまけにあっけなく終わってしまいます。これが橘さんのいう「冒険」(あらすじから)だとすれば、拍子抜けです。
小林栗奈さんはお馴染みの応募者。さっと物語を作ってしまう手業には感心します。しかし、すぐにストーリーが出来てしまうところが、おそらくは小林さんにとっての落とし穴なのです。舞台は外国で、横文字の名前の叔父を持った日本人という設定にまったく必然性が感じられません。「ギクリ」、「ガタン」、「ガラリ」、「ギリリ」といった常套的な擬音語・擬態語が連発されるのにはうんざりします。ここでどういう言葉を使うべきかという作者としての血の滲む選択が感じられません。推敲不足なのです。これしかないという物語が立ち上がるまで小林さんはじっと待つべきでしょう。

工藤 左千夫
選考委員会代表幹事
絵本・児童文学研究センター理事長
●生涯教育と児童文化の接点を模索するために絵本・児童文学研究センターを開設(平成元年)。平成14年、特定非営利活動法人となる。現在、会員数は全国で1300名を超え、2年半にわたる基礎講座(全54回)を開講するとともに多様な公益事業に取り組んでいる。 小樽市在住

ファンタジーとは第三者の目ではなく
自らのもう一つの目なのである
本賞も今年で九回目。来期は十回目となる。新たな文学賞も十年が一区切りとよく言われるが、いつのまにかの積年である。今まで大賞が二作(『裏庭』『鬼の橋』)で、佳作は今回で四作目となる。

「かはたれ」
「かはたれ」は、久しぶりの佳作受賞作品である。ここ数年、スンナリと読める作品が少なかったので一気に読破できた作品である。人間界に生息の場を奪われていく河童族の若者の物語。その若者が人間界に修行に向かい、人間の生態をよく観察するために猫に変身し、ある家庭に居座るというもの。これらの発想は、当初、奇抜で面白く感じられた。しかし、である。読み進むうちに、何ともまとまりのない作品として「お話」が終焉。この作品の主人公はだれ? 結局、河童の「八寸」は何のために人間界に来たの? 河童界と人間界の和解の道筋は? などの疑問、というよりもそれらが何一つ解決されていないのではないか。その将来の道筋も、である。結局、人間界の女の子とその父親の絆が深まっただけの物語だったのか、という肩透かしの感じが否めない。
ファンタジーのジャンルで変身ものを扱う作品は多い。そして名作と呼ばれうる作品も数多くある。それらに共通しているのは、人間界と動物界との異なった視点である。その視点の差異によって、日常では看過されやすい人間界の諸課題を浮揚させるのである。これはファンタジーの本質とも絡んでくる。ファンタジーの非日常とは、第三者の目ではなく、自らの深層に生息し、普段は日のあたることのない自らのもう一つの目なのである。そのような視点が架空の世界であれ、アニミズムの世界であったとしても、自らに根ざしたリアリズムを手放すことがない。名作とはそのような作品である。
作者の筆力は多いに認める。そうでなければ佳作受賞はありえなかった。今後、佳作以上の作品を望む次第である。
「幽霊保険」
作者は、常連の応募者である。かつて、いつかは受賞の壁を突破できる可能性があるとおもっていたのだが、年々、筆力が落ちている。今回の作品も各選考委員が述べているとおり、内容についての上滑りが多すぎる。あえて、言うならば評価の手前の作品である。今一度、物語を書くことの意味を真摯に問い直して欲しい。プロの書き手になるためには、駄作は駄作として自覚しなければならない。
「弥生の海峡」
本作品は、歴史文学であってファンタジー文学ではない。それはそれとしてもダイジェスト的に読みやすい作品である。ただ、読みやすいというだけで、内容については大いに疑問がある。縄文と弥生文化の衝突、古代の韓(朝鮮)半島と日本とのかかわり、そして民族的確執など、どれをとっても現代的課題として重要なのであるが、全てが中途半端。またそれらの課題を文学でどのように表現するのか、という課題についても評価の対象とはなりえない。


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