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ドーンDAWN20号

選考結果

〔選考結果〕

大 賞 該当作品なし
佳 作 該当作品なし
奨励賞 該当作品なし

第18回児童文学ファンタジー大賞の公募は2011年11月から2012年3月31日までの期間で行われた。
応募総数199作。
一次選考において12作、二次選考では6作が通過。三次選考会においては次の4作が候補作に決まり、最終選考委員にそれらの原稿を送付した。

  「狗神憑き」         赤城 佐保
  「ディーバの流れ星」     若本 恵二
  「雲のトレイル」       本田 昌子
  「たいようとつきのしごと」  なかにし さとみ

最終選考会は斎藤惇夫(委員長)、藤田のぼる、高楼方子、中澤千磨夫、工藤左千夫の各氏によって構成され、2012年9月9日、小樽にて開催された。
選考会は、大賞・佳作推薦の有無から始まり、結果として大賞・佳作は該当作品なしということで、全選考委員の意見が一致した。続いて、奨励賞の選考審議に入り、奨励賞も該当作品なしということで決定した。

選後評

斎藤 惇夫
(さいとう あつお) 

選考委員長
児童文学作家/絵本・児童文学研究センター顧問
1940年生まれ・埼玉県さいたま市在住

●長年、福音館書店の編集責任者として子どもの本の編集にたずさわる。2000年より作家活動に専念する。1970年『グリックの冒険』(岩波書店)で作家としてデビュー。著書『冒険者たち』『ガンバとカワウソの冒険』『なつかしい本の記憶』共著(ともに岩波書店)、『現在、子どもたちが求めているもの』『子どもと子どもの本に捧げた生涯』(ともにキッズメイト)。『いま、子どもたちがあぶない!』(共著、古今社)。2010年に刊行されたタイム・ファンタジー『哲夫の春休み』は28年ぶりの書き下ろし注目作(岩波書店)。

今一度、自分に問いかけて下さい

今回は受賞作なしです。すでにこの選考会で奨励賞や佳作を受賞なさっている方々の作品に関しては、それ以上の質を求めるという選考会の方針から、そう決定しました。
なかにしさとみさんの『たいようとつきのしごと』は、物語の梗概が記されただけといった趣で、まだ作品の域までいっていません。肝心の、主人公の孫娘を預かることになった祖父の画家が描き切れておらず、彼と別れることになった祖母、父なしで育った母、姉たちの姿が見えてこないのです。ところどころ、主人公と祖父の緊張した生活が垣間見られ、祖父の息遣いも聞こえ始め、それを丹念に追っていけば、一つの家族が、時代が、愛が、そして主人公の幼年時代も思春期も青春時代も浮かび上がり、上等なタイム・ファンタジーが誕生したのではないかと思えるのですが、残念です。
本田昌子さんの『雲のトレイル』は、山と登場人物たちそれぞれとの有機的な関係が語られておらず、山も、山で登山者が経験したファンタジーも、登場人物たちも、読者に鮮明な画像を刻みつけないままで投げ出されています。この物語の鍵は、日本人のアコ―ディオン弾きに惹かれ結婚したドイツ人のフリッツの描き方にありました。彼が山に魅せられ、そこで経験するファンタジーは、故郷のドイツと、新たな生活の地の日本の経験の深まりになり、同時にそれは妻を知り、愛を深めていく過程でもあったはずなのです。そうでないと、主人公の高校生の夏衣と友人の花織が山に魅せられていく要因にはなりません。ところが彼はあまりに平板にしか語られていません。肉体が感じられないのです。ストーリーはあるけれども、プロットが描けていないのです。物語の中で記した幾峯かにもう一度登り精緻に山(自然)を描き、丹念に登場人物たちに肉薄して描いたならば、我が国の自然、西欧と日本の文化の比較、愛の深まりを、そして思春期の心の中を、子どもたちに経験させることができたのに、と惜しまれます。
若本恵二さんの『ディ―バの流れ星』は、まずは、徹底してアメリカン・ネィティブの歴史と生活、それに言語も調べ上げたうえで、リアリズムの作品として描かれるべきでした。物語は流れていて一気に読めるものの、物語を支える細部に破綻があります。そこからファンタジーが生まれるか否かはともかく、それなしにファンタジーが生まれないことだけは確かです。
赤城佐保さんの『狗神憑き』は、相当に考えられた構成なのですが、どうも薄手の時代劇、それもおどろおどろしさや、暴力と血の匂いの目立つ物語になってしまいました。むしろこの物語は、人さらいにあった少年が、いかに異端であったにしても、歌舞伎の花形になるまでの、芸を身につけていく過程、つまり具体的な修行の現場を、資料を駆使し取材を続けながら、徹底して描くべきでした。我が国の文化を継承し、創りあげている現場に足を踏み入れてほしかったのです。そうすれば、その修行の中に自ずと主人公が、そして彼を取り巻く人物たちが生き生きと描かれ、なによりも、過酷な修行と華やかな舞台との間に、ファンタジーとしての狗が登場することも可能だったと思えますし、一つの文化を、子どもたちに経験させることができたと思われます。

総じて、どの作品も、「今」、「子どもたちに」、「このファンタジー」を届けなければ、「胸がはりさけそうだ」という思いに欠けています。それが欠けているために、ストーリーやプロット、人物造形、物語の構成が弱く、そのまま作品の甘さになっています。昨年の大震災、とりわけ原子力発電所の事故は、書き手一人一人に、子どもたちに向けて書く意味を鋭く問いかけているはずです。今一度、その問いを、自らに投げかけて下さい。  

藤田 のぼる
(ふじた のぼる)

選考委員
児童文学評論家/(社)日本児童文学者協会事務局長
1950年生まれ・埼玉県坂戸市在住

●児童文学の評論と創作の両面で活躍。評論に『児童文学への3つの質問』(てらいんく)、創作に『雪咲く村へ』『山本先生ゆうびんです』(ともに岩崎書店)、『麦畑になれなかった屋根たち』(童心社)、『錨を上げて』(文溪堂)、講演原稿集『児童文学の行方』(てらいんく)などがある。

改めて「児童文学」の「ファンタジー」であることの意味を考えたい

四編の最終候補作がまったく違う持ち味の作品だったということもありますが、今回は改めてこの賞が求めている作品とはどのような作品なのか、ということを考えてしまいました。僕はこれまでは、むしろその作品なりの意図(それは必ずしも作者に意識されているとは限りませんが)がどのように達成されているか、いないかということを第一義に評価しようと臨んできましたが、今回はあえて選考委員としてどのような作品を求めているのかを自分に問うてみたわけです。
というのは、この賞が始まった十八年前と今とでは児童書の傾向が大きく変わっています。十八年前なら児童文学の「ファンタジー」ということである程度の共通認識が得られかもしれませんが、今は児童文学と大人の文学との境界が見えにくくなっていますし、ライトノベル的な作品(乱暴なくくり方かもしれませんが)がファンタジーとして読まれているという傾向も少なからずあります。言葉で「これこれがこの賞の求める作品」と表現することは無意味だと思いますが、応募者の皆さんはこの賞が「児童文学」の「ファンタジー」であることの意味を、再度捉え返してほしいと思います。
さて、そうした意味で僕にとっては「狗神憑き」と「ディーバの流れ星」は、違うところをめざしている作品のように思えました。ただ、それとしても相当に道半ばで、「狗神憑き」はジャンルとしては芸道ものになると思いますが、主人公にとっての芸の悩み、苦しみ、歓びといった肝心なところが描かれていない。従って主人公の成長がきわめて概念的な感じでしか伝わってきません。それと、脇役たちのキャラクターは魅力的なのですが、〈配置〉のしかたがいま一つで、それが長編としての構成の弱さにつながっているように思いました。
「ディーバの流れ星」も、一口でいえば観念的。農耕が時代の主流になろうとする時代にあって、弱小の狩猟民族という星の下に生まれた主人公がどのように生きる視座を獲得していくのかというテーマばかりが浮き上がって、作品世界を楽しめませんでした。むしろ、例えば滅びゆく狩猟民族の悲哀といったところに焦点をあててみたら、また違った魅力を出せたのではないでしょうか。
さて、あと二つの作品「雲のトレイル」と「たいようとつきのしごと」は、先に述べたような意味で、僕にとっては賞をとってほしい作品でした。「雲のトレイル」は、ひとつの作品世界の中に、登場人物の語る物語が組み込まれる、いわゆる枠物語の方法をとっています。前半あたりまでは、その語られる物語のおもしろさに引き込まれ、これはなかなかの作品だと期待を持ちました。ところが途中から物語の語り手が変わり(もちろん、それはそれでいいのですが)、一つひとつの物語のおもしろさが積みあがっていかないのです。つまり、枠物語としての戦略が見えず、結局この作品世界の中心というか焦点になる人物は誰だったんだろうと思ってしまいました。残念というしかありません。
「たいようとつきのしごと」は、年の離れた三人の姉たちを持つ末っ子の女の子の心模様を描いた作品で、なにか自分がいるべきところを見失ってしまったという、やるせない喪失感のような思いが、僕にはストレートに伝わってきました。そして、そのことだけでも、児童文学としては大きな価値を持っていると思いました。ただ、祖父の家の中で、未来の自分と出会うという展開には相当無理があり、ファンタジーとしてのしかけには成功していません。ただ、これはこれで子ども読者と出会わせたいと僕には思え、賛同が得られず残念でした。

高楼 方子
(たかどの ほうこ)

選考委員
児童文学作家
1955年生まれ・北海道札幌市在住

●著書に『時計坂の家』(リブリオ出版)、『緑の模様画』(福音館書店)、『十一月の扉』(リブリオ出版/新潮文庫)で2001年産経児童出版文化賞、『いたずらおばあさん』(フレーベル館)と『へんてこもりにいこうよ』(偕成社)で1996年路傍の石幼少年文学賞、『おともださにナリマ小』(フレーベル館)で2006年産経児童出版文化賞・JBBY賞、『わたしたちの帽子』(フレーベル館)で2006年赤い鳥文学賞・小学館児童出版文化賞などがある。2011年9月翻訳『小公女』(福音館書店)刊行。2012年11月『いたずら人形チョロップと名犬シロ』(ポプラ社)刊行。

自分が何をしたいのか、まずそれを知ること

●雲のトレイル
静かだけれど力強く美しい文章を安定して繰り出し、不思議な光景を鮮やかに見せてくれる。しかも語られる一つ一つの小咄は似かようことなくそれぞれ独創的で粒が揃っている。こんなことはそうそうやれるものではありません。もう十分大賞に相応しい作品だと思いながら読みました。が! 読み終えて唸ってしまったのは心を動かされたからではなく、思いのほか動かされなかったからなのです。これほど堅牢で上質な作品なのに何故だろうと暫し考えているうちに、主人公の夏衣が読者をはぐらかし続けたのが大きな要因ではないかと思い当たりました。
夏衣と行動を共にする読者としては、夏衣の立場でフリッツさんが語る不思議体験に耳傾ける。それをどう受け止めたか、その都度夏衣が引き取って考察を加えるべきだとまでは思わないものの、外国人の先生が毎回お話をしてくれるような英会話教室、しかも高校生の少年やさまざまな年齢の大人たちが集う瀟洒な家での(アフタヌーンティ付き!)会話教室の仲間入りをしたこと自体、普通の中学生にしてみたら相当わくわくすることだと思うと、不思議譚を積み重ねていくだけの作品の作りは、どうもよそよそしいのです。最後には夏衣自身が登山に挑み苛酷で不思議な体験をする。それが、数々の話をどう受け止めていたかの答えになるとしても、読者にとって夏衣は親しい主人公ではないためにその冒険にも決意にも心から寄り添えないのです。つまり一つの物語をいっしょに通ってきた感じにどうしてもなれなかった。――そういうわけで、とことん推す元気が出なかったのです。でもこれほどよく書けているのです。ぜひもう一度、物語全体について考え、最善の形を追求してみてください。

●ディーバの流れ星
きびきびした緊迫感のある文章に引っ張られ、ドキドキハラハラ、ぐいぐい読みました。かつての過ちを心に留めつつ、孤独に精進し続ける少年ディーバには好感がもてます。が! 何が問題といって(他の選考委員の方たちがそのことをちっとも気にされてなかったことが不思議なんですが)、周辺部族を支配しようとする大国に立ち向かい、自由と平和を勝ち取ろう!という決意を匂わせて終わるこの物語の行方、そこが問題なのです。状況から察するに、それはつまり小部族で連合し兵力を蓄えディーバが陣頭指揮して一気に攻め込む、ということなのだと思います。でもそれでいいのでしょうか。史実に基づく歴史小説だというのならわかるのですが、そんな物語が、今なおわざわざ新たに書かれなければならないのか、ということなのです。こういう〈読み〉をしたくはないけれど、殺し合いに勝った後の未来像として見えるのも、せいぜいが武装した平和な村々というところ。暗澹とせざるを得ない。結局、新しい物語にはなれなかったということではないでしょうか。

●たいようとつきのしごと
せめて第一章くらいの緻密さを二章以降も保っていたら、もう少し深い作品になったのではないでしょうか。祖父やアミなど〈わたし〉を変えていく重要人物たちの造型や起こる出来事、祖父と家族の関係、十五歳と二十四歳の〈わたし〉のことなど、落ち着いてよく考え整理し、もっと掘り下げてみて下さい。これは初稿の段階。自分が何を書きたいのか、したいのか、まずそれをはっきり知ることで精度もあがり、良い作品になると思います。

●狗神憑き
一生懸命丁寧に書かれているし、文章も言葉づかいも達者で、読むぶんにはぐんぐんいくのですが、いったい全体、作者は何をどうしたくて、これをこう書いているのか、ついにわからずじまいでした。

中澤 千磨夫
(なかざわ ちまお)

選考委員
北海道武蔵女子短期大学教授/絵本・児童文学研究センター評議員
1952年生まれ・北海道小樽市在住

●著書に『荷風と踊る』(三一書房)、『小津安二郎・生きる哀しみ』(PHP新書)など。「小津安二郎作品地名・人名事典」作成のため、日本と東アジアを飛びまわる。今年は日中戦争南昌作戦の修水河へ行ってきた。一方、初めてのプロデュース作品・前田直樹監督『冬空雪道に春風』を札幌・夕張・東京で上映した。

福島の山で味わう怖く哀しく切ない愛郷心

なかにしさとみさんの「たいようとつきのしごと」。好感が持てます。十五歳から十二歳と二十四歳の自分を見るという設定も無理がありません。とはいえ、物語の核たる祖父の絵本「たいようとつきのしごと」そのものの魅力が乏しく、単なる都合で配されたとの印象を出ません。エピローグで祖父の失明が間近に迫っていることを描くのは、時間構造をいたずらに複雑にするばかり。方向として間違ってはいませんが、もっと書き込まなければ読者の納得は得られません。
若本恵二さんの「ディーバの流れ星」。いけません。狩猟民対農耕民という図式の中で、各族の描き分けや存在の必然性がまったく感じられません。沢山の動植物が出てきますが、なんとでたらめなことでしょう。既に絶滅しているオーロックをはじめ、ヘラジカ、セアカモズ、ホオアカ、モリバト、ヤナギラン、ツルリンドウと賑やかですが、これらの分布域を重ねていくと、物語の場所や年代はめちゃくちゃなものとなってしまいます。岩窟が「乾燥しており」というのも不審。要するにいいかげん。
赤城佐保さんの「狗神憑き」。けれん味たっぷりの歌舞伎外伝。父に棄てられた綺羅太夫の哀しみと「狼の子」羽狗の哀しみもよく繋がっています。おしむらくは文章のうるおい。文末が単調に過ぎ、定型的オノマトペも目障り。熊本に羽狗を埋めに行ったあとの展開、つまり父との再会は急ぎ過ぎです。
本田昌子さんの「雲のトレイル」。肩の力が抜けた力作です。ユーモアのセンスもたっぷり。登山や地形に関する細部の書き込みが自然かつ丁寧。「山の雷は、上から落ちてくるとは限らない。横から来るのもある」などといいます。ファンタジー部分であるフリッツさんの不思議な体験も雪女にしろ、なぞなぞにしろみな大仰なものではありません。
柳田国男の「山の人生」や「遠野物語」を持ち出すまでもなく、そもそも日本においては山そのものが異界なのですね。小春さんという日本人と結婚し、登山家としても日本語ユーザーとしても初心者のフリッツさんが、一人称で雪女との出会いを語るというのは、フリッツさんが現代の小泉八雲・ラフカディオ・ハーンとして登場してきたことを示します。平家落人伝説が残る福島の檜(ひの)枝(え)岐(また)村で低地からフリッツさんに付いてきた「珍しいお連れ」のモンキチョウは平家紋のアゲハチョウに繋がります。プシケーは魂。その魂の里で子どもたちになぞなぞ遊びを仕掛けられます。同窓会をしている大人ともども平家ゆかりの者たちが姿を変えているのでしょうか。なぞなぞの子どもに「故郷を想う心をちょうだい」といわれるのは怖く哀しく切ない。平家が時間的にも空間的にも遠い都を偲んでいるかのよう。かく『平家物語』に繋がる仕掛けも雄大。つまり、怪談の伝承者たるフリッツさんが物語の内部で成長していくのです。
ただ、このゆるやかな怪異の積み重ねがかっちりとした物語としての構成に欠けるかのように見られるとすれば、課題が残ります。現代長編小説としての問題です。私はこれもおおいにありの立場です。おりしも、敬愛してやまない後藤明生の未完の絶筆『この人を見よ』が没後十三年にして単行本化されたばかりですから、いやでもそんなことを考えてしまいました。

工藤 左千夫
(くどう さちお)

選考副委員長
絵本・児童文学研究センター理事長
1951年生まれ・北海道小樽市在住

●生涯教育と児童文化の接点を模索するために絵本・児童文学研究センターを開設(平成元年)。平成14年、特定非営利活動法人となる。現在、会員数は全国で1300名を超え、2年半にわたる基礎講座(全54回)を開講するとともに多様な公益事業に取り組んでいる。
著書『新版ファンタジー文学の世界へ』『すてきな絵本にであえたら』『本とすてきにであえたら』(ともに成文社)、『大人への児童文化の招待』(エイデル研究所 河合隼雄共著)、『学ぶ力』『笑いの力』(岩波書店 河合隼雄他共著)。 

願い続けること

今回の選考会では、初めて賞(大賞・佳作・奨励賞)の選出がなかった。事前の予想と合致したことが残念である。そして今後もこのような事態が起こることも予想できる。それは本賞も十八回を数え、確かに大賞が二回しか出ていないのだが、佳作や奨励賞はそれなりに選出されている。回数が増えると最終選考会には、かつての佳作及び奨励賞受賞者の応募作品が三次選考を経て審査の対象になるケースが増えてきたからである。そのことが難しいのだ。
例えになるのだが、過去二回の大賞受賞の作品を鑑みると、時速二百キロで走れる車を百キロ程度で走行して大賞を獲得している。まだまだパワーの余力を感じられた。それがなければ受賞以後の活躍はありえなかったろう。梨木香歩さんも伊藤遊さんも、以後、大いに活躍している。
ところが、佳作や奨励賞受賞者の作品を観ると、百キロで走れる車を、全開の百キロ走行。つまり、作品に余力が感じられないのである。そしてそのような受賞者の応募作品は前作に劣るケースがほとんどである。これでは、受賞の声すらかからない。
今まで、佳作から大賞へ行けたのは伊藤遊さんだけである。もっとも、伊藤さんの場合は最初から、大賞受賞の『鬼の橋』をもっていて、別な作品「なるかみ」を応募してきた。それは満場一致での佳作。授賞式には『鬼の橋』の原稿を持参してきた。翌年、満場一致での大賞受賞となったわけである。
創作にはやはり時代感覚も含めた才能が必要であろうが、選考委員長の斎藤惇夫さんが述べているように、書かなければ、それを表現しなければ「心が張り裂けそうになる」という切迫感が作者になければ読者の魂を揺さぶることはできない。これは小手先に頼った技術の世界では無理である。
今回は、選後評については避けたい。各選考委員の選後評でOKというわけではない。異論もある。これは選考委員各位の文学観、ファンタジー観の差異、さらに英米系のファンタジーやドイツ系のファンタジー、さらに日本的ファンタジーの違いをどう観るか、また各々の軸がどこにあるのか、という深刻な課題がそこに隠されている。ただし、そのような課題は、自然科学的な発想で解決できるものではなく、きわめてグレーゾーンの中に存在する。文学自体が作家の主観というグレーゾーンの産物であるため、それを評するときには多様な「……観」の違いが生じてくる、これも必然的なことであろう。問題は、各選考委員の多様な価値観や基軸があるにしても、そのようなボーダーを越えるような作品があるかどうかだ。
あと二回でこの賞も二十歳を迎える。また本賞を主催している絵本・児童文学研究センターも、創設から来年で二十五年。そろそろ大賞と呼ばれる作品に遭遇したい。このことを願い続けるのみである。


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