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ドーンDAWN19号

選考結果

〔選考結果〕

大 賞 該当作品なし
佳 作 該当作品なし
奨励賞 「ふらち者」 若本 恵二
    「淵と瀬」  平野 恭子

第17回児童文学ファンタジー大賞の公募は2010年11月から2011年3月31日までの期間で行われた。
応募総数185作。
一次選考において12作、二次選考では6作が通過。三次選考会においては次の3作が候補作に決まり、最終選考委員にそれらの原稿を送付した。

  「ふらち者」         若本 恵二
  「淵と瀬」          平野 恭子
  「ぼくとあいつと銀杏の木」  幸原 みのり

最終選考会は斎藤惇夫(委員長)、藤田のぼる、小寺啓章、高楼方子、中澤千磨夫、工藤左千夫の各氏によって構成され、2011年9月11日、小樽にて開催された。
選考会は、大賞・佳作推薦の有無から始まり、結果として大賞・佳作は該当作品なしということで、全選考委員の意見が一致した。
続いて、奨励賞の選考審議に入り、「ふらち者」(若本恵二)、「淵と瀬」(平野恭子)が本年度の奨励賞に決定した。

受賞コメント

若本 恵二
(わかもと けいじ)

新潟県在住  71歳
中央大学法学部卒
奨励賞「ふらち者」
420枚(400字詰換算)

▼受賞コメント

浮世絵師。私にはどこまでも夢を追い続けていったじつに魅力的な人物に思えます。北斎、歌麿、写楽、広重、国芳、そして明治期にまで活躍した河鍋暁斎。江戸期の文人にも、破天荒な生き方をした人たちがいたようですが、浮世絵という親しみやすい芸術の道を歩んだ絵師はわかりやすく、文献などで伝えられている彼らの生き方は、反権力的で抵抗精神に富み、しかも、諧謔精神を感じさせて人間的です。「ふらち者」に登場するのは歌川国芳らしき男です。彼の氏素性を調べましたが、染め物屋の家に生まれたということはわかりましたが、家族関係が不明でした。そこで春芳という男に変えました。その点がこの作品の弱さのひとつになっていると思います。
私が国芳に魅力を感じるのは、「第3の男」としての悲哀の色を見てしまうからです。同時代に北斎、広重という、今の時代にも世界に強烈な印象を与え続けている偉大な絵師がいました。私の勝手な推測ですが、国芳はこの時代、この二つの高峰を仰ぎ、苦悩しながら自分の画業を磨いていったのだと思っています。彼は多くの弟子を育てたそうですが、生きている時代には、北斎と広重に肩を並べることはなかったのです。彼はむしろ今の時代に脚光を浴びており、そのことを、あの世から眺めて喜んでいるのかもしれません。彼の気持ちのなかでは、「まっとうなことをしていたんじゃ、北斎や広重には勝てねえよ」という思いがあったのではないでしょうか。その思いがやがて破天荒な絵に発展していったのではないかと思っています。浮世絵師と弟子の少年の絆をテーマにしていますが、児童文学作品として、わかりにくい面があったのかもしれないと思っています。筋立てももっとシンプルにすべきでなかったかと反省しています。受賞させていただいたのは意外でありましたが、今後の創作活動の励みにさせていただきます。

平野 恭子
(ひらの きょうこ)

愛知県在住  31歳
名古屋大学法学部卒
奨励賞「淵と瀬」
565枚(400字詰換算)

歴史の中で一つの出来事を手繰り寄せると多くの事実に出会います。現代の社会や組織が持つ問題を重ねて見ることもあれば、いつの世にも変わらぬ人の生きざまを見ることもあります。その中で気付かされる、一歩でも前に進もうとする人の営みの尊さを書けたらと思いました。歴史や物語に名を残した人にも、若き日があり、老いた日があり、悩み、苦しみ、笑い、楽しみながら生きたのだと。
史実と伝説と創作を織り交ぜつつ遣唐使を中心的な題材にしたのは、21世紀を生きる子どもたちには、異なる文化や価値観に向き合う姿勢がますます重要になると思うためです。私自身、子どもの頃と社会人になってから外国で暮らした経験があり、異文化に身を置いた時の日々の戸惑いや驚きが思い出されました。
話の中では主人公は夢と現実が混じり合う不思議な体験を通して過去を経験します。しかし不思議な出来事が起きなかったとしても、私たちは本を通して同じように歴史や様々なことを知り、疑似体験することができます。有難さを忘れそうになるほど、誰もが幼いころから本に囲まれ、「文」から「学」ぶことのできる現代。これもまた、先人の無数の努力があってこそ。今に繋がる時間を一生懸命に生きた人々に敬意と愛おしさを感じつつ、そして私たちの日々の営みもまた、小さな一歩となって次に繋がっていくという気概を大切にしていきたいと思います。
最後になりましたが、時間をかけて作品を読んでくださいました選考委員と関係者の皆様、ありがとうございました。奨励賞という励ましを頂きまして、成長できるように努力していきたいと思います。

選後評

斎藤 惇夫
(さいとう あつお)

選考委員長
児童文学作家/絵本・児童文学研究センター顧問
1940年生まれ・埼玉県さいたま市在住

●長年、福音館書店の編集責任者として子どもの本の編集にたずさわる。2000年より作家活動に専念する。1970年『グリックの冒険』(岩波書店)で作家としてデビュー。著書『冒険者たち』『ガンバとカワウソの冒険』『なつかしい本の記憶』共著(ともに岩波書店)、『現在、子どもたちが求めているもの』『子どもと子どもの本に捧げた生涯』(ともにキッズメイト)。『いま、子どもたちがあぶない!』(共著、古今社)。2010年に刊行されたタイム・ファンタジー『哲夫の春休み』は28年ぶりの書き下ろし注目作(岩波書店)。

もっと主人公にひたむきに迫ってください!

放射能という負の遺産を子どもたちに与えてしまったおとなの一体誰が、どんな形で、子どもたちに生きる歓びを感じさせ、しかも彼らをこの時間と空間の向こうに解放してくれる物語を書くことができるのだろうか、と思いつつ今回の作品を読みました。二作、歴史上の人物をモデルにして描かれた力作を読むことができ、ほっとしました。が、

淵と瀬  平野恭子
井眞成(せいしんせい)の墓誌が2004年に西安で発見され、そこに、彼が、遣唐使の一員で、どうやら阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)や吉備真備(きびのまきび)とともに717年に入唐、激しい望郷の念に苛まれながら死んだと記されていたことに心ゆさぶられたのか、著者は丹念に資料を漁り時代と西安を描きだし、そこに三人を向かわせ、住まわせ、また、次の世代の不破麻呂に夢の中で三人を体験させるという方法で、1300年前の青春を、日本と唐を、歴史を描きだそうとした。
事実をしかとおさえ、再現しながら語っているので、物語は破綻なく動き出していくのだが、次第に歴史のいささか退屈なお勉強をさせられているような重苦しさが漂い始める。街のざわめきや香りがしてこない。青年たちの、異国への心の高ぶりと、到着してからの興奮、故郷との文化や歴史の違いからくる違和感、挫折、そしてやがてその中でそれぞれが歩き始めていく彼らの青春の肉体そのものが感じられない。どうやら著者は、時代と舞台を再現することに力を使い果たした気配である。とことん三人の青年に惚れ込んでほしい。そして、物語の語り手としての不破麻呂にもっと個性を持たせ、決して夢などではなく、例えばアトリーの『時の旅人』のぺネロピーのように、自在に、しかもある必然性をもって(つまりファンタジーとして)三人と時代にからませながら、生きているものとして三人と舞台と時代を描き出してほしかった。この作品を熟成させてほしいと切に願う。それに値する作品である。

ふらち者  若本恵二

実に多岐にわたる仕事を残し、猫好きでも知られ、洒脱な人柄を慕って、浮世絵師の中でも、最も多くの門人をかかえていた歌川国芳は、たしかに魅力的な人物で、その国芳を、作者は飲兵衛で女好きで、北斎に異常な嫉妬を燃やす人物春芳と名を変えさせて、しかも、たった一人の弟子が彼を見つめるという構成で、物語を語り始めた。それは一つのアイデアにはちがいないし、そういう方法で国芳に近づいていこうとした、あるいは一人の浮世絵師を子どもたちに経験させようとした、作者の意図もわからないではない。著者の達者で軽妙な文体は、たしかに、絵師の心の中を垣間見させてくれるし、江戸時代の画家と弟子や画商との関係も面白く書かれ、さらに弟子の恋物語もからませ、物語としては楽しませてくれる。しかし国芳の、作品を通して感じさせられるあの得体の知れぬ人間性、不思議さ、面白さには届いていない。事実は、歴史は変えられないのである。その変えられない事実と歴史との中で葛藤するのが、ファンタジーの面白みであるし、生命線のはず。この書き方では、現代のイラストレーターにまで深い影響を与えている、画家国芳に迫ることにはできない。子どものための物語としては、相手が大きすぎた、というところだろうか。だが、読者が子どもだからこそ、大きすぎる、おそらく作者にとっても未知なる部分があまりに多い国芳に挑むことが、子どもの本の書き手の仕事ではなかったのだろうか。やはり、とことん国芳に惚れ込んで、彼の全体像を一篇の物語にしてほしかったなあと思う。

藤田 のぼる
(ふじた のぼる)

選考委員
児童文学評論家/(社)日本児童文学者協会事務局長
1950年生まれ・埼玉県坂戸市在住

●児童文学の評論と創作の両面で活躍。評論に『児童文学への3つの質問』(てらいんく)、創作に『雪咲く村へ』『山本先生ゆうびんです』(ともに岩崎書店)、『麦畑になれなかった屋根たち』(童心社)、『錨を上げて』(文溪堂)、講演原稿集『児童文学の行方』(てらいんく)などがある。

「ファンタジー」という形の前に 徹底して主人公と向かい合う

最終選考に残された3作の内2作が歴史ものというのは、歴史・時代ものが好きな僕にとってはうれしいことでした。そして、その2作はきわめて対照的な作品でした。
まず「淵と瀬」のほうは、入り口というか玄関があって、そこから中に入ると別の家に迷い込むような構造になっています。その玄関の部分は、東国の豪族の家に生まれた主人公が、衛士として上京し、手柄を立てたものの、故郷の人々の苦境を思い悶々とする日々が描かれます。そんな折一人の女官と出会い、その出会いの不思議さが別の時空を引き寄せたように、大海原に浮かぶ遣唐船の中にワープします。そして留学生の若者たちと十数年を共にし、やがて元の時空に戻り、そこで自分の体験が数十年前の実際の時間であったことを知るのです。典型的巻き込まれ方のストーリーとも言えるし、長い歴史の中に時たま現れる(?)時空を越える人の物語ということもできます。
いずれにしても、このような物語を成立させる必須のアイテムが、読者をぐいぐいと引っ張っていく(時に突き放す)縦横な語りの文体だと思います。しかし、残念ながらそうした文体の魅力に乏しく、結果として時空の変換が起こる度に、読者は必死にそのあとを追いかけなければいけない、という感じでした。ナイスチャレンジといえなくはないのですが、 (大分刈り込む必要はありますが)まずはもっとオーソドックスに、歴史ものとしての作品世界をていねいに発酵させてほしかったと思いました。
一方、「ふらち者」のほうは、ある意味過剰なほどに語りの魅力に満ちた、いわゆる読ませる作品でした。登場人物もわかりやすい配置になっているので、誰に照準を合わせて読んでいけばいいか、すぐにつかめます。才能はあるもののやる気が出てこない絵師と、どうやら絵の才能はないらしい生真面目な弟子。絵という虚構の世界に加えて、二人は疑似親子でもあります。弟子の側は孤児になった自分をひきとってくれた師匠への恩返しという気持ちもあり、師匠の側は、弟子の死んだ母親に恋慕の情を抱いていたらしいのです。さまざまなレベルでの〈虚〉と〈実〉との重ね合わせ。しかしこの作品における〝不思議〟はそう簡単には起こらず、ためにためたところで一気に怪異が出現します。
ひとことでいえばツボを心得た作品で、読者としては楽しませてもらいました。ただ、「この作品は児童文学だろうか?」という疑問が途中から頭を離れず、しかしなぜそういうふうに思うかがうまく言葉にならず、選考委員会でその話になったらどう説明しようか……と思っていたら、他の選考委員からも同じ感想が出されたので、ちょっと安心(?)しました。今も適切に説明できないのですが、この作品のおもしろさというのはどうもなにかを切り捨てたところで成立している面があり、そのことが「児童文学かどうか」という疑問とつながっているように思えます。
もう一つの作品「ぼくとあいつと銀杏の木」は、まずもって、〈今日〉と〈昨日〉との間に通路ができ、ぼく同士が入れ替わってしまうという作品の基本的な仕掛けのところでつまずいてしまいました。いろいろ図を書いたりしてその原理を納得しようと試みたのですが、だめでした。また後半で、父親の再婚相手のお腹の赤ちゃんを結果として死にいたらしめ、時間をまきもどすことを考えるという展開は、ファンタジーという方法が道具にされているようで、なにかが逆立ちしていると思いました。
今回は、3編が別々の作品過ぎて、全体的な感想というのは見つかりにくいのですが、「ファンタジー」という形の前に、まず徹底して主人公と向かい合い、対話すること。そこからじっくり登場人物たちやできごとが求めている作品世界を構築していくこと、ということになるでしょうか。当たり前すぎていやになりますが、やっぱりほんとにそうだな、と考えたことでした。

小寺 啓章
(こでら ひろあき)

選考委員
兵庫県子どもの図書館研究会代表/ノートルダム清心女子大学非常勤講師
兵庫県太子町立図書館 元館長
1946年生まれ・兵庫県太子町在住

●兵庫県西部の市・町の公共図書館に35年勤め、太子町立図書館長として24年勤務。2007年3月退職。著作・執筆に日本経済新聞夕刊「本の国から」(1999.4~2001.3)、『図書館雑誌』コラム「窓」(2005)、「子どもと絵本と図書館と(1-12)」(『こどものとも年中版』福音館書店(1999.4~2000.3)、「資料でみる 石井桃子の世界」(執筆・編集)、「石井桃子」(『平成22年度国際子ども図書館児童文学連続講座講義録:日本の児童文学者たち』2011.9)などなどがある。

ファンタジーは、独創的な想像力から生まれる

『いまファンタジーにできること』で著者のル=グウィンは、「ハリー・ポッター」を例に言う。
多くの書評家や文芸評論家が、フィクションの大ジャンルについて、こん なにも知識が乏しく、素養がなく、比較の基準をほとんどもたないために、 伝統を体現しているような作品、はっきり言えば紋切り型で、模倣的でさえ ある作品を、独創的な業績だと思いこむ―どうしてそんなことになるのだろ う?(※1)
 彼女の指摘は選考委員にも厳しいわけだが、ファンタジーの比較の基準は、リリアン・スミスが『児童文学論』でくり返し述べる、子どもたちが読み継いできた傑作にある。

『ぼくとあいつと銀杏の木』の主人公は南谷悠人、六年生。マンションの四階に母親と二人で住む。少年は、昨日や明日の自分に出会う。窓下の公園に立つ銀杏の古木の切れ込みから、時を移動する。ファンタジーにとって重要な瞬間だが、残念ながら絵が浮かばない。流産した胎児へのメッセージが妹沙耶の「胎内記憶」になるのも不合理。時を扱った作品は、特に読者を納得させなければならない。安心して読める文章と構成だが、期間をおくと、まったくストーリーが残らない。母さんと妹、幼なじみの水瀬の女性陣に「頭が上がらないぼく」にも、彼の将来にも人間的感情がわかないからだ。十二歳の男の子なら、過去の自分になって見る現在や未来の世界に、もっと新鮮な驚きや発見があるはず。「子どもの目は大人の思うよりはるかに鋭く、透んだ目であり、その「目」を通してみた世界を描くのが、児童文学だと私は思っている」(河合隼雄※2)。
『ふらち者』 の主人公は十四歳の七助。絵師歌川春芳の弟子。春芳は北斎の「神奈川沖浪裏」の衝撃から描けなくなり、七助が師の再起を願う設定。七助の、春芳の身の回りの世話から「神経をすりへらす」ほどの献身が十分伝わる。破天荒な師、春芳の姿は見事。一方、主人公は、うちわの絵付けを依頼されるが、描く苦心が伝わらない。春芳の独創の転機となる雷神風神、百鬼夜行の出現にファンタジー性があるのだろうが、その経緯が不確かで、七助が料理人になるという結末の話も唐突。会話はべらんめえ調で、表現も戯作風で読ませる。
『淵と瀬』 の主人公は、十七歳の不破麻呂。武勇にすぐれ、武蔵国から上京、都(平城京)の衛士を勤める。時代は道鏡のころで、不破麻呂は望郷の念が強い。突如、物語は不破麻呂が見る夢になり、舞台は五十年前の遣唐使船上に移る。不破麻呂は吉備真備の従者となり、異国での遣唐使の姿を描く物語になる。この唐での十七年間が作品全体の2/3を占める。都、長安の案内、科挙、呉音など遣唐使中心に古代史を教えてもらう印象だが、「吉備大臣入唐絵巻」や『遣唐使』(東野治之著 岩波新書)の「海を渡った人々」の方が痛快。不破麻呂の時代は、冒頭と結末にあって、挿入の物語が長い不均衡な構成。サンドイッチの如く中の具が肝心だったようだが、真備と秋月との愛や弁正親子の別離の場面など、随所で情緒過剰の表現は通俗的で紋切り型。特に、「橋を焼く」「橋を落とす」は岸から岸へ架ける橋だけではなくて、心情的なつながりを象徴したい作者の思いがあるようだが成功していない。また漢字の多用は観念的になる上、変換間違いや誤字はいただけない。真備が「かな」の創始という説をとるならなおさら。ただ、全体に勢いがあり次を期待したい。
最終選考の三作品は、主人公はどれも男の子。人に気兼ねして解放されない日常は、精神的に疲れる内容だった。これは現代の男たちの反映なのか。主人公が作者のコントロールを越えてもっと動き出してほしいと思った。

リリアン・スミスは、「ファンタジーは、独創的な想像力から生まれるものであって、その想像力とは、私たちが五官で知りうる外界の事物から導きだす概念を超えた、よりふかい概念を形成する心の働きである」と述べ、アリスや『たのしい川べ』などを挙げる(※3)。
ル=グウィンも、
〈指輪物語〉の作者は学者であり、大学教授としての立場から、自分自身 が書いた種類のフィクションについて論考を書いている。ファンタジー文学 について考えることができるようになりたいと願う人は、まずそれらの論考 を読んでみるとよい。(※1)
として、「〈指輪物語〉を読んでごらんなさい (中略) あの本はその存在自体によって、ファンタジー文学の価値を十分にあらわしている」と言う。
トールキンの『ホビットの冒険』をはじめ、『ライオンと魔女』『とぶ船』『トムは真夜中の庭で』『時の旅人』などが図書館の書架にある。これらファンタジーの傑作に、書き手も私たちも、くり返し親しみ、楽しむことが必要ではないだろうか。傑作を超える「独創的」なファンタジーが図書館の棚に並べられる日を急がず待ちたい。

※1 『いまファンタジーにできること』 アーシュラ・K・ル=グウィン著
(谷垣暁美訳 河出書房新社 2011.8) p.42 p.47
※2 『石井桃子集3』 解説 (岩波書店 1998) p.310
※3 『児童文学論』 リリアン・H・スミス著  (石井桃子・瀬田貞二・
渡辺茂男共訳 岩波書店 1964)  p.273

高楼 方子
(たかどの ほうこ)

選考委員
児童文学作家
1955年生まれ・北海道札幌市在住

●著書に『時計坂の家』(リブリオ出版)、『緑の模様画』(福音館書店)、『十一月の扉』(リブリオ出版/新潮文庫/青い鳥文庫)で2001年産経児童出版文化賞、『いたずらおばあさん』(フレーベル館)と『へんてこもりにいこうよ』(偕成社)で1996年路傍の石幼少年文学賞、『おともださにナリマ小』(フレーベル館)で2006年産経児童出版文化賞・JBBY賞、『わたしたちの帽子』(フレーベル館)で2006年赤い鳥文学賞・小学館児童出版文化賞などがある。2011年9月「へんてこもりのはなし」シリーズ5『へんてこもりのまるぼつぼ』(偕成社)、翻訳『小公女』(福音館書店)、10月『ドレミファ荘のジジルさん』(理論社)刊行。

読者をさらう、魅力や色気が必要

●ふらち者
文章といい展開といい、実に鮮やかで面白い作品でした。作者は、書くという行為を通じて歌川国芳という人物に自分なりに出会おうとし、読者である子どもたちにも出会ってもらおうとしたのでしょう。七助という少年弟子を春芳(国芳)の身近に据え、ほとんど格闘するように春芳の世話を焼かせたことで、「歴史上の人物」ではなく肉体的感触の伴う人間として――情け無い困った男だけれど、同時に可愛らしさや暖かさのある、苦悩する一人の芸術家が、我々の目の前にもしっかり現れてくれました。
けれど、読者として不満だったのは作者の七助の「扱い」です。あくまで春芳を描くことが主眼で七助のことではないとしても、一人の少年に、春芳の世話に徹するばかりの控え目で有能な主婦みたいな役を振り、最後までそのトーンの内に留めてしまって、ほんとうに良かったのでしょうか。これは、趣味の問題ではなく作品の質を決定していく要素でもあるはずです。春芳が鬼気迫る勢いで制作に没頭し始めた時、絵を志す七助ならば深いところで衝撃を受けるべきだし、それによって芸術の凄さを知りそこに至れない者の苦悩が始まるはずです。それをつるりとかわしてしまったことで、作品も深まり損なった気がするのです。

●淵と瀬
史実と伝説に基づき、それらを統べるようにして物語を構築していった構成力に、ほんとうに感心してしまいました。文章も丁寧で、堅牢な作品をよく創りあげたと思います。
いいなと思ったのは、夢を挾んで前後に不破麻呂の現在が配されるわけですが、観察者の立場に退くことになる夢の中で不破麻呂が真備に語った、民を思うという観点が、後の真備の執政に影響を与えたという作りになっている点、そして夢から覚めた不破麻呂も、若き遣唐使たちの熱い日々に寄り添ったことで、眠りに入る前とは違う人間になっているという作りです。
けれど問題も幾つかありました。例えば唐での暮らしの描き方。これだけ内容びっしりのところへ、長安の風物から人々の様子、異国と出会った彼等の驚愕など様々なことをたっぷり書き込んでいったのでは規定を超える長さになり、応募は出来なかったでしょうが、この作品は本来それを要求しているものだと思います。それがないために、上辺のやりとりを順を追って見ている感じが拭えませんでした。
これは極めて微妙なことですが、結局のところ、足りないのは枚数なのかもしれないし、作者の力なのかもしれないし、両方なのかもしれませんが、とにかく、きちんと真面目に書かれていることに加えて、読者をさらっていく魅力や色気が絶対に必要――というか、それなしの物語は、本当の物語とは言えないと思うのです。それさえもっと備わっていたら、すばらしい作品だったろうと思います。枚数にとらわれず、本気で完成させてみてはいかがでしょうか。

●ぼくとあいつと銀杏の木
これは、昨日をもう一度やり直せたら、という誰もが人生に何度か体験するような後悔と願いから書き始められた作品なのだろうと思います。ここでは、妊婦を突き落としてしまった「あの時」をやり直すという、その一点に向かうためだけに、一日前に戻るというこの「タイムファンタジー」が仕組まれたように思います。創作のモチヴェーションとしてはいっこうにかまわないのですが、それから先は、一日前の世界があるとはどういうことか真剣に取り組まなければ、中編以上の物語を支えつつ面白いお話に引き上げていくのは難しいでしょう。といっても、ミニシアターでかかるような、変なところもあるけど、けっこうクオリティーの高い映画を見ている感覚で楽しく読んだのですけれどね、私は。

中澤 千磨夫
(なかざわ ちまお)

選考委員
北海道武蔵女子短期大学教授/絵本・児童文学研究センター評議員
1952年生まれ・北海道小樽市在住

●日本近代文学から映像論と守備範囲は広い。著書に『荷風と踊る』(三一書房)、『小津安二郎・生きる哀しみ』(PHP新書)など。「小津安二郎作品地名・人名事典」作成のため、日本と東アジアを飛びまわる。初プロデュース作品となる札幌・小樽・夕張を舞台とした前田直樹監督の短編映画『冬空雪道に春風』が完成したばかり。

夢から大海原に飛んでいく雄大さがいい

幸原みのりさんの「ぼくとあいつと銀杏の木」。「ぼく」と「あいつ」が二重に流れている時間の狭間で入れ違うというアイディアはありきたり。安易。しかし、子どもたちの日常や会話は生き生きと描かれています。教師の上から目線も免れています。でも、やはり退屈かな。その退屈さが一変するのは、加奈さんの登場から。腹違いの妹が出来たという事態に動揺する「ぼく」が抑制して描かれます。階段を巡るサスペンスは、この作品が階段ドラマの文化的文脈(『戦艦ポチョムキン』、『風と共に去りぬ』、『風の中の牝鶏』など)を受け継いでいることを示し、読者に戦慄を与えます。とはいえ、ふたつの世界の整合性というか、書き込み不足がたたって、深い共感を得るまでには至りませんでした。
若本恵二さんの「ふらち者」。まず、応募原稿としてのマナーに欠けるところがあります。締切に追われて怱卒に書き上げたのでしょうね。最後の十五頁ほどは、明らかに浄書原稿ではありません。次に、タイトル、「くそったれめ」以下の章題や品を欠く語り口、「放埒で酒好き」な主要人物・歌川春芳像。これらが児童文学の枠内にすんなりはまるのかという疑問があります。さらには、ファンタジー性の希薄さです。百鬼夜行や先輩絵師たちの浮世絵を幻視することはリアリズムの世界でも十分に起こりうることではないでしょうか。しかし、以上三点の不満を越える筆力を若本さんはお持ちでした。語り口の不満については、一編の新作落語なのだと了解すれば納得がいきます。同時代の先輩・葛飾北斎にルサンチマンを覚える春芳が少年・七助の導きで再生する物語ということですね。
平野恭子さんの「淵と瀬」。今回随一の力作。でも、タイトルがぴんときません。細かな誤用も目立ちます。目立ちすぎます。冒頭の「序」は不要。主題めいたことを語られるのは興ざめです。末尾の「跋」も工夫が必要。とにかく説明はいけません。語り手(あるいは作者)がしゃしゃり出て作意を語るのはもってのほかです。全編にわたる難読文字の使用はまったくいただけません。ペダントリーはさりげなくちらつかせてこそ効果があるというものでしょう。リーダーやびっくりマークの多用も困りものです。
欠点が多い作品ですが、とにかく夢から大海原に飛んでいく雄大さがいいですね。夢の中で不破麻呂が真備に「記憶があろうと、なかろうと、同じではないか」といわれるのは意味深い。夢と現実が繋がり、日本と唐が繋がる。不破麻呂の仕事がやがて平仮名普及に繋がる。こういった大きな構想を不破麻呂の夢が包み込んでいるというスケールが素晴らしいではありませんか。不破麻呂の夢の中で、真備も夢を見ます。夢の入れ子ですね。日本(武蔵)の不破麻呂・由利の対が、夢の中で唐の真備・秋月の対を包み込む。小さな日本(武蔵)が大きな唐を包含するのですね。歴史素材を十二分に咀嚼消化し、わくわくさせてくれる手腕はただものではありません。
最後に気になる点を。吉備真備は片仮名の創始者であるという俗説があります。平野さんは、その真備を草書から平仮名、さらには国風文化の開花に繋がるルーツと捉えています。確信的創作なのでしょうが、物語の最後になって平仮名縁起が出てくるのは、唐突です。この縁起譚は削ってしまっても、作品は成立するのではないでしょうか。あるいはもっとふくらませてしまうという手もありますが。

工藤 左千夫
(くどう さちお)

選考副委員長
絵本・児童文学研究センター理事長
1951年生まれ・北海道小樽市在住

●生涯教育と児童文化の接点を模索するために絵本・児童文学研究センターを開設(平成元年)。平成14年、特定非営利活動法人となる。現在、会員数は全国で1300名を超え、2年半にわたる基礎講座(全54回)を開講するとともに多様な公益事業に取り組んでいる。
著書『新版ファンタジー文学の世界へ』『すてきな絵本にであえたら』『本とすてきにであえたら』(ともに成文社)、『大人への児童文化の招待』(エイデル研究所 河合隼雄共著)、『学ぶ力』『笑いの力』(岩波書店 河合隼雄他共著)。

大賞受賞の難しさ

今回で十七回目の選考会になる。また、本賞にかかわってから二十年(準備期間三年)の歳月が流れた。この間、大賞は二作(第一、三回)、佳作は九作が出ている。奨励賞になると数が多くなる。本来、このファンタジー大賞には「奨励賞」なるものが存在しなかった。奨励賞が出来たきっかけは第四回の選考会なのだが、そのときは大賞や佳作に相当する作品がなく、選考会の途中で二十分ほどの休憩をとり、大賞の運営委員会を急遽開催していただいた。
賞の出ない選考会の辛さ、そして各メディアへの対応を考えると、「なにもなし」というわけにはいかない、そのため「奨励賞」を創るとの結論を運営委員会で出していただき、選考委員会もそれを了承。結果として出来たのが現在の「奨励賞」なのである。
確かに自然科学のような数値的基準があるわけではない。そこに文学賞選考の難しさがつきまとう。大賞と佳作はどのように異なるのか? 佳作と奨励賞との差異は何か? と問われれば即答することは難しい。しかし、それらの差異は厳然としてある。かつて第一~三回の選考委員であった佐野洋子さんが述べていた。それも自分の胸を軽くたたきながら。「ここで感じるのよね~」。
選考委員の一人一人の心の奥には厳然として存在する。優れた作品を手にしたときの読後感、それは詩的直観の刺激に近似する。つまり、頭での理解や納得ではなく心に落ちるという表現しかできないもの、それこそが大賞であり、その手前が佳作なのである。そうすると「奨励賞」はどのように表現すればよいのだろうか。あくまで奨励であり、「今後の研鑚を期待する」程度でよいのだろうか? 奨励賞のみに出会う選考会においては、いつも考えさせられるのだ。特に今回は、東日本大震災の直後が応募原稿の締切日だったので、通年よりも応募作品数が微減した。そのため最終選考会までの作業は、通年よりも楽であったと思われるだけに、余計に先ほどの事柄を考えてしまうのである。

「ぼくとあいつと銀杏の木」
直観的に「二重身」という感覚が浮かぶ。通常では、そのような心理学的な感覚で読むことはないのだが、この作品については妙に引っかかる。まあ、そのことはいいでしょう。作者がそのような体験がなければ、穿った見方ではあるが、何かを参考にして書き込んだ作品なのかな~と感じてしまった。タイムファンタジーの手法を使うとすれば、重層的な時間と単層的な日常の絡みから生じる物語によって「人間」の意味の深さが語られていなければならない。本作品は、複雑な回路をミステリー調に見せているだけである。

「淵と瀬」
このタイトルはいただけない。また、説明調の教科書的な知識の切り売りもいただけない。が、多くの説が混在する日本の古代史の一端を垣間見る、ということであれば面白い。ただ、あまりに多くの説があるので慎重さがさらに必要なように思われる。内容については、各委員も語っている事柄とほぼ重複。とにかく、「奨励賞」であることは確信します。

「ふらち者」
本作品は、「奨励賞」と「佳作」の中間に位置すると考えている。斎藤委員長の指摘した次元をクリアしていれば「大賞」と「佳作」の中間、もしくは大賞に手が届く可能性があったと思われる。ただ、そのためには「この作品は児童文学なのか?」という各選考委員の評価を覆すだけの何かが欲しかった。それは作品における、さらなる奔放さと緻密さなのか、はたまたファンタジーという手法が若本さんの描きたい世界に合っているのかどうか? 一考してはいかがでしょうか。


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