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ドーンDAWN21号

選考結果

〔選考結果〕

大 賞 該当作品なし
佳 作 「かしかけ」 もりお みずき
奨励賞 「花は山吹 ~ぼくの春休み~」 三根生 厚子(みねおい あつこ)
    「天明の祈り 平成の夢」 加部 鈴子(かべ りんこ)

第19回児童文学ファンタジー大賞の公募は2012年11月から2013年3月31日までの期間で行われた。
応募総数200作。
1次選考において15作、2次選考では6作が通過。3次選考会においては次の4作が候補作に決まり、最終選考委員にそれらの原稿を送付した。

  「花は山吹 ~ぼくの春休み~」 三根生 厚子
  「メガネ同盟」 井上 晶子 
  「天明の祈り 平成の夢」 加部 鈴子
  「かしかけ」 もりお みずき

最終選考会は斎藤惇夫(委員長)、藤田のぼる、高楼方子、中澤千磨夫、工藤左千夫の各氏によって構成され、2013年9月8日、小樽にて開催された。
選考会は、大賞推薦の有無から始まり、結果として大賞は該当作品なしということで、全選考委員の意見が一致した。
続いて、佳作・奨励賞の選考審議に入り、「かしかけ」(もりお みずき)が本年度の佳作に、「花は山吹 ~ぼくの春休み~」(三根生厚子)、「天明の祈り 平成の夢」(加部鈴子)が奨励賞に決定した。

受賞コメント

もりお みずき

沖縄県在住 68歳
聖心女子大学国語国文学科卒
佳作「かしかけ」
227枚(400字詰換算)

▼受賞コメント

9月8日午前、電話のベルに一瞬息がつまりました。工藤左千夫先生の静かなお声が「佳作入賞」を知らせてくださいました。続いて斎藤惇夫先生に代わり「二人の少女が……」。私はよく聞き取れませんでした。喜びで頭がぼんやりしてしまったのです。
私の作品を光のほうへ掬い上げてくださった一次選考の先生方、本当にありがとうございます。それが始まりでした。届いた封書の十五人の名前をなぞりながら、もうこれで満足だと思いました。それだのに私はその封書を昼はバッグにずっと持ち歩き、夜は枕元に置き何度も読み返しました。二次の知らせ三次選考の封書もそうしました。心の隅の小さな期待に縋り付き、祈ったのです。日々、「待つ」という苦しみに似た感情に占められてしまいました。そうして敬愛する五人の選考委員の先生方に「佳作」に選んでいただきました。こんなに幸福なことはありません。
私は高楼方子先生の『十一月の扉』の熱烈な愛読者です。爽子ちゃんと耿介くんが大好きです。耿介くんに成り代わって、ホフマンスタールの詩を引用して書かれた斎藤先生の解説にも強く惹かれました。この物語は解説も含めて、なぜか遥か遠くに去った自分の青春時代を痛みのように思い起こさせます。
高校大学時代、私はリルケに夢中でした。彌生書房の紫のリルケ全集が書棚に今もあります。私はリルケの詩を自分の物語の中に忍ばせることにしました。私の描いた、「春か夢かに」生まれた少女たちが、今、五人の先生方に出会うことが出来て、本当に本当によかったです。感謝の思いに満たされています。
宮古島は神歌(かみうた)と民話の宝庫です。いたるところに御嶽(うたき)があり、人々は神々とともに暮しています。「かしかけ」を読んだ方が、南の青い風に吹かれ巡る命のつながりを感じ、少しでも明るい気持ちになってくださったならどんなにか嬉しいことでしょう。

三根生 厚子
(みねおい あつこ)

東京都在住 54歳
神戸大学文学部卒
奨励賞「花は山吹 ~ぼくの春休み~」
254枚(400字詰換算)

▼受賞コメント

ずっと書けなかった物語の最後の部分を書いたのは今年の正月でした。闘病中だった父の容態が悪くなり帰省した四国の実家で結末部分の場面が頭に浮かんできました。実家にはパソコンはなく、父の机の引き出しにあった黄ばんだノートに介護の合間に書きました。
父は二月に亡くなりましたが、本が好きだった父は今回の賞を喜んでくれていることと思います。
異界のものに出会うこと、異界に足を踏み入れること、異界の側の存在になってしまうことに、つきせぬ思い入れを持ってきました。
民俗学関係の本を読むのが好きで、「隠れ里」の「祭」が今回の物語になりました。架空の隠れ里「夢楽」の成り立ちや風習を考えるのは楽しかったです。あまり準備もないまま書き始め、ふと登場させたキャラクターが意外にふくらんできて物語を引っ張っていってくれました。
自分で感じているこの物語の弱みとしては、参考となりそうな現場に取材することが少なく、本で調べたり、自分のわずかな経験を元に想像したりすることで書いてしまったということです。そのために緻密さ、確かさが不足していたのではないかと思います。   
また「異界へのあこがれ」ということだけでなく、そこにもう一つ切実なテーマが加わることがよりよい作品になるには絶対に必要なのかとも思ったりしています。
とはいえ反省点はあるものの今の自分には精一杯の作品でした。「奨励賞」という言葉の意味を受け止めて今後も書き続けていきたいと思っています。
拙作を読んでいただき、過分な賞をいただいたことを心から感謝いたします。         

加部 鈴子
(かべ りんこ)

群馬県在住 37歳
群馬県立女子大学文学部卒
奨励賞「天明の祈り 平成の夢」
167枚(400字詰換算)

▼受賞コメント

江戸時代、浅間山噴火によって引き起こされた山津波。多くの人家が流され、死体が遠く江戸まで流れ着いた。そのことを教えてくれたのは、大学時代にお世話になった考古学の先生でした。「江戸まで流されて奇跡的に生き残った人がいたとして……、これで一本物語が書けないかな?」そう真顔で言われて、その時は苦笑いをするしかありませんでした。
けれど、文献を調べ、地元にある浅間石や慰霊碑を巡っていくうちに、天明期に引き離された若い男女の物語と、現代で出会う二人の物語がどんどん膨らんでいき、「この物語を書かずにはいられない」という気持ちになりました。
想像を絶する災害を前にして、何か自分に出来ることはないのかという焦りにも似た感情を持った人は多いのではないでしょうか。同時に出来ることの少なさに歯痒い思いをしたのも私だけではないでしょう。せめて、被災地の子供達を勇気づける物語を書きたいと思っても、彼らの体験した現実を思うと、それを直視して何かを書くことは生半可な覚悟ではできそうもありませんでした。
それでも、ファンタジーの力を借りて、江戸時代に私の故郷で起こった災害を、そこで傷つきながらも懸命に立ち上がろうとする人たちを書くことで、何か伝えられることがあるのではないか、そう思ったのです。
夢中で書き上げてから半年経ちましたが、今思うと私にとってファンタジーは、逃げでしかなかったのかもしれません。辛い現実から目をそらさず、そのうえでファンタジーともきちんと向き合えば、もっと違った形の物語になったのかもしれないと思うのです。
初めてファンタジーを意識して書いた物語で、これがファンタジーといえるか自信はありませんが、奨励賞に選んでいただいて嬉しいと同時に身の引き締まる思いです。この賞に恥じないよう、今後も精進していきたいと思います。ありがとうございました。 

選後評

斎藤 惇夫
(さいとう あつお)

選考委員長
児童文学作家/絵本・児童文学研究センター顧問
1940年生まれ・埼玉県さいたま市在住

●長年、福音館書店の編集責任者として子どもの本の編集にたずさわる。2000年より作家活動に専念する。1970年『グリックの冒険』(岩波書店)で作家としてデビュー。著書『冒険者たち』『ガンバとカワウソの冒険』『なつかしい本の記憶』共著(ともに岩波書店)、『現在、子どもたちが求めているもの』『子どもと子どもの本に捧げた生涯』(ともにキッズメイト)、『いま、子どもたちがあぶない!』(共著、古今社)。タイム・ファンタジー『哲夫の春休み』(岩波書店)は28年ぶりの書き下ろし注目作。

心の内側に静かに向かう作品

昨年受賞作品なしとしたこともあり、緊張しながら候補作品に向かいましたが、今回は力のこもった作品が集まり、ほっとしながら読み終えることができました。「天明の祈り 平成の夢」と「花は山吹~ぼくの春休み~」は奨励賞、「かしかけ」は佳作と決定しました。受賞なさった三名の方々が、それぞれファンタジーという方法で、自らの心の内側に静かに向かおうとしている姿に、清々しさをおぼえました。

「天明の祈り 平成の夢」
浅間の麓と東京を舞台に、浅間の大噴火のもたらしたドラマを、現代と江戸時代とを交互に描きだしながら、タイム・ファンタジー仕立てで、今に繋がるものとして語ろうとした力作。東京に住む主人公の少女が、次第に遠い故郷の浅間の麓の街に心惹かれていく過程が、自らのルーツ探しと相俟って、軽快なテンポで語られていく。作者の故郷が、そのまま物語の舞台になっていることが、物語にリアリティ―をもたらしている。大噴火のあと、鐘に入って利根川を200キロ流されるという設定の不自然さ、まず夢からファンタジーに入るという仕掛けの安易さ、江戸にタイムスリップした時の主人公と主人公を受け入れる側双方の違和感が感じられないこと、男たちがいずれも類型的であること、主人公の、この物語(ファンタジー)を担う特別な感受性が描かれていないことなど、不満も残るが、まっすぐな少女の成長に、爽やかな読後感が残る。ぜひ『時の旅人』や『トムは真夜中の庭で』の、五感に感じ取ることができるような精緻な表現を学んでほしいと思う。

「花は山吹~ぼくの春休み~」
閉ざされた村に伝わる神話と祭が、村の歴史、登場人物、季節、を融け合わせながら語られており、殊に、神楽をはじめとして、描写が困難な祭りそのものが、目に見えるように描き出されていて心動かされる。主人公を、現実とファンタジーの合間にいる10歳の少年にして、不思議な村の祭りの主役にして物語を展開させたことも成功している。ただ、具体的な村の日常の生活の描写が希薄なために、例えば、しめ縄で繋がれているという影の実態が、昔、同じ祭りの主役だった父親の、担任の先生の覗いたファインダーでのみ見えたという部分も含めてよくわからない。描写が走りすぎ、著者の頭にしか認識されていない世界になっている。「いましめを切れ」という肝心の父親の言葉が、村の過去の惨劇との関係において、つまり村の今の日常の生活とどういう関わりにあるのか、もうひとつ見えてこない。ここのところがもう少し明瞭になったら、豊かな物語になったのに、惜しい。

「かしかけ」
自分の寄って立つ処を求めてさまよう捨て子の13歳の少女が、那覇から宮古島に転校し、自分では納得できない死を迎えてしまった少女と出会うことによって、生きる場所を見つけるまでの物語。少女の内面の揺らぎが、精緻に描かれた宮古島の風土と、丁寧に記された宮古島の言葉、そして彼女を受け入れる、そこに住む人々の生活、思い、信仰の中で、次第に熟し、回復に向かっていく姿が、鮮やかに捉えられ、浮き彫りにされる。生と死を縦糸に、島の歴史を横糸に織り上げた力作。死を迎えた少女のクラスメートの正人を、もう少し物語の中に登場させたら、縦糸と横糸を更に彩り鮮やかに織ることができたであろうし、また、過去の島の歴史が語られるところが、やや唐突にすぎ、もうすこし物語に馴染む形で語ってほしい、という思いはするけれども、ファンタジーという手法でようやく紡ぎだすことのできた、美しい物語である。
藤田 のぼる
(ふじた のぼる) 
選考委員
児童文学評論家/(社)日本児童文学者協会事務局長
1950年生まれ・埼玉県坂戸市在住

●児童文学の評論と創作の両面で活躍。評論に『児童文学への3つの質問』(てらいんく)、創作に『雪咲く村へ』『山本先生ゆうびんです』(ともに岩崎書店)、『麦畑になれなかった屋根たち』(童心社)、『錨を上げて』(文溪堂)、講演原稿集『児童文学の行方』(てらいんく)などがある。2013年4月に福音館書店より『みんなの家出』を刊行。

沖縄からの児童文学発信を慶ぶ

今回佳作に選出された「かしかけ」は、沖縄・宮古を舞台にして、心に闇を抱えた一人の少女の自己発見を描いた作品で、かねてより「沖縄の児童文学」の登場を待望していた僕にとっては、誠にうれしいことでした。というのは、沖縄からはこれまで多くのすぐれた大人向けの文学作品は生みだされてきたのに、なぜか児童文学では本土側の作家が書いた作品はそれなりにあるものの、沖縄の書き手による沖縄を舞台にした本格的な児童文学作品がほとんどなかったからです。それも、沖縄本島ではなく、宮古島が舞台の作品が、北海道から発信されているこの文学賞で評価されたことは、とても意義深いことだと思います。
ただ、僕はこの作品にはいくつかの不満がありました。まずは文章上のことで、結構長いセンテンスに読点がきわめて少なく(これは、意識的にかもしれませんが)、文脈が乱れているところが少なくないこと。また、主人公のかし子の視点に寄り添った語り方になっていますが、それがいささか一本調子で、彼女をとりまく世界の奥行きのようなものがうまく伝わってこないもどかしさがありました。ただ、死者と生者とが混在している独特の作品世界を描くのに、そうした方法が有効だという気もして、そのあたり評価の難しいところでした。同時に、現代の物語の中に、過去の時代の物語が挟み込まれている手法も、ほとんど手続きなく置かれている感じで、これも読者に委ねられているといえばいえるかも知れませんが、やはりもう少し手がかりがほしいように思いました。ただ実際にはそういうところをあちこちいじるというよりも、この作品のポイントである宮古上布と宮古の女たちとの関わりを、さらにていねいに描き出していくという方が肝要なのかもしれません。

奨励賞の「花は山吹~ぼくの春休み~」は、もっとも抵抗なく読めました。これまでの選考で読んだたいていの作品が、やや長さを持て余している感じで、時々前に戻って確認したりしながら読み進めるのですが、この作品についてはそうしたことがまったくありませんでした。読者を引っ張っていく適度なミステリーや舞台装置もうまいと思いました。ただ、都会に住む子どもが、初めて訪れる親の故郷の謎と出会うという枠組みに既視感があり、もうひとつドキドキすることができませんでした。それは、この作品のゴールとして設定された、伝承を断ち切るということの意味がいまひとつ見えにくかったということとも関わるかもしれません。

「天明の祈り 平成の夢」は意欲作だったと思いますが、一言でいえば急ぎ過ぎという感じでした。このテーマ、題材ならば、倍くらいの長さがあってもよかったのではないでしょうか。文章も悪くないのですが、枠組みというか、仕掛けが見えすぎて、ヒロインの心の微妙な揺れや、それぞれの時代の感触のようなものがうまく伝わってきませんでした。

最後、「メガネ同盟」ですが、僕はおもしろく読みました。ただ、やはり中学一年という設定を考えると、魔法のメガネを通じて不思議なものが見えてしまうことに対しての戸惑いというか、心の揺れがなさすぎると思いました。ですからとりあえずのストーリーとしては受け取れるのですが、読み終えた後、その作品の向こうから立ちあがってくる何か、が感じとれませんでした。
今回は、どの作品もまちがいなく「児童文学」になっていて、その点は良かったと思いますが、児童文学の創作の途上で、どのように読者と〈対話〉しながら書いていくのかという課題(そのことによって、過不足のない表現が実現するのだと思いますが)の難しさを、改めて感じたことでした。

高楼 方子
(たかどの ほうこ)

選考委員
児童文学作家
1955年生まれ・北海道札幌市在住

●著書に『時計坂の家』(リブリオ出版)、『緑の模様画』(福音館書店)、『十一月の扉』(リブリオ出版/講談社青い鳥文庫)で2001年産経児童出版文化賞、『いたずらおばあさん』(フレーベル館)と『へんてこもりにいこうよ』(偕成社)で1996年路傍の石幼少年文学賞、『おともださにナリマ小』(フレーベル館)で2006年産経児童出版文化賞・JBBY賞、『わたしたちの帽子』(フレーベル館)で2006年赤い鳥文学賞・小学館児童出版文化賞などがある。近著には翻訳『小公女』(福音館書店)、『いたずら人形チョロップと名犬シロ』(ポプラ社)。2013年4月に偕成社より『トランプおじさんと家出してきたコブタ』を刊行。

描写の匙加減が、むずかしいところ

●「かしかけ」
宮古島という〈場〉と二人の少女のストーリーとが、肉と血のように切り離しがたく絡み合い一体化したことで生まれた、ここにしかない物語世界。この作品の真価はそこにあると思います。
キビ畑に沿った陽の当たる道を、かし子と本当はもう死んでいるマオとがずうっと歩いていく光景や、自分には見えていないのに、ああ今マオがこちらに来ているのだな…と察して、普通に振る舞う人々……。宮古島の小村の景色や空気、生者と死者が入り混じる境界を自然のこととして受け入れている土地の人々などの微妙な描写の積み重ねが、作品を柔らかくもし質の高いものにもしていると思います。美しい映像が目に浮かぶようです。
ただ、かし子とマオについてはまだ掘り下げが物足りない気がしました。読者としては二人をもっと知りたいし親しくなりたい。それなのに過去の少女たちモヨとウタのことが生き生き伝わるほどには伝わってこないのです。もっと二人に寄り添える物語であったなら、選考会で「舞台に頼りすぎている」とか「宮古島に行かなければ子どもが救われないのでは困る」といった意見が出ることもなかったろうと思います。このままではもったいない。もう少し深めてほしいと思います。

●「天明の祈り 平成の夢」
天明の災害によって引き裂かれた少年と少女の思いが、時を経て現代の少年少女に引き継がれ、叶う、という物語中の〈現代〉が、平成二十三年の夏と明記されているところに、作者の思いを読み取ることができます。二年前の大震災を物語になどしたくない、でもいきなり断たれたたくさんの希望に対するせめてもの思いを、このような物語に託したのだと思います。問題は、そう明記したことでこの作品のリアリティが怪しくなってしまったこと。つまり天明の噴火を調べていく途上で、詩織がただの一度も春の震災のことを思わないのは不自然なのです。具体的な年号を出すならばきちんと触れるべきだし、触れないのなら工夫がいるでしょうね。
勢いのある作品でしたが、夏休み一人で見知らぬ駅に降り立ったりしながら自由研究を進めていくときの体感のようなもの――駅舎の匂いや汗だくになって歩く道の辛さなど――がもっと伝わってくればいいと思いました。それは過去の描写にも言えることで、会話に頼ってストーリーを進めすぎると、全体が浮かびあがってこない。もっとも、自然描写が多いと読む子は退屈してしまう。匙加減は常に難しいところですね。

●「花は山吹 ~ぼくの春休み~」
父親が背を向け逃避していた出生の村での役割を十歳の息子が引き受け解決するという大枠の中で繰り広げられる、澱んだ隠れ里で過ごす春休みの物語。お神楽の場面が――練習風景や見ている老人たちの様子など――が、とてもいいと思いました。
でも正直に言えば、私にはよくわからない作品でした。もちろん精一杯丁寧に読んだのですが、この世界にどうしてもなじめなかったのと、複雑な因縁などが難しくてきちんと把握できなかったのです。ですからこの作品の選考についてはほかの委員の方にお任せした次第です。(すみません)

●「メガネ同盟」
最終選考に残った四作の中で、読むのが一番楽しみだった作品です。ワクワクすることが起こりそうな題名ですからね。けれども、かけると人の隠された部分が見えてしまう眼鏡という設定で展開される話は、ぱあっと大きく飛び立たないまま、〈外側に見えるものだけが真実ではない〉というテーマに(物語によってではなく言葉によって)収束されて終わってしまった。せっかく友人のエリのような魅力的な少女も出てきたのに残念でした。

中澤 千磨夫
(なかざわ ちまお)

選考委員
北海道武蔵女子短期大学教授/絵本・児童文学研究センター評議員
1952年生まれ・北海道小樽市在住

●著書に『荷風と踊る』(三一書房)、『小津安二郎・生きる哀しみ』(PHP新書)など。「小津安二郎作品地名・人名事典」作成のため、日本と東アジアを飛びまわる。10月、上海交通大学で「小津安二郎と志賀直哉」と題し講演。

地霊が立ちのぼる迫力

受賞した三作。濃淡はあれ、いずれも文化の伝承がモチーフ。3・11後のいま、いったいどうなる日本という強い意識に裏付けられていること疑いない。
もりおみずき「かしかけ」。大峰かし子という捨て子の少女が自分をアイデンティファイすべく宮古島を訪ねる物語。「かしかけ」ホワット? 宮古上布の織りの過程、糸を掛けることだという。だが、知らぬ読者は、はた戸惑う。かく読み手への顧慮・親切を排除して宮古島の言葉・流俗・伝統・歴史がこれでもかこれでもかと繰り出されてくるのには圧倒される。無視・排除が意識的なものかどうか分明ではないが、それがいかにも心地よいのだ。地霊が立ち上がってくるがごときの迫力。行文がやや説明的なのは気にならぬでもないが、よくぞここまで書ききった。大賞に至らなかったのは第二章のバランスがいかにも悪いということだろう。上江洲一真を中心とする人頭税・新体詩のことなど、明治の少女・モヨの視点で独立させるのではなく、道子か由紀子がかし子に伝えるというように思い切りショートしてしまう。あるいは、かし子・マオがモヨ・ウタの転生であることをよりはっきりさせるべく膨らませる。そのどちらかだろう。本質的には後者を採るべきかと思う。
加部鈴子「天明の祈り 平成の夢」。これまた地誌的喚起力に溢れた作品。麻織りの伝承が大切な要素となっているのもいい。「浅間が哭いた」という冒頭からぐんぐん読ませる快作。ただ、会話に頼り過ぎているのは、ひと工夫が必要。でもね。後半タケルならぬ健と詩織が出会ってからのあれよあれよの恋物語。めでたくハッピーエンドという次第なのだが、そういうことだったのと拍子抜けしてしまう。3・11直後の夏の物語なのだが、その「いま」がすっぽり抜け落ちているのが決定的な瑕瑾。
三根生厚子「花は山吹~ぼくの春休み~」。異世界・夢楽の無気味さはよく描かれている。百郎さんに案内されまるで人気がない常家に行くあたり、幽鬼の里の雰囲気が醸される。その名に反し夢楽を捨てた父・衛と夢楽を開くべく迎えられた息子・開。二代にわたる使命を巡る物語。ただ、私にはその使命が腑に落ちない。末尾に百郎が「にこにこして言」う。「すぐに夢楽はもっと便利になりますよ。千丈町までの道路工事もこれからはうまくいくでしょう」。この能天気ぶりはどうだ。百郎がそういうのはいいとして、それを相対化する視点がないのはいかんともしがたい。常家としての衛・開父子が覚醒するとすれば、消滅が必至であるとしても、自分たちには果たさなければならぬ使命があるという自覚の獲得でなければならない。それこそが消えゆく危機に瀕した文化の伝承というものだろう。それに気づかぬなら、春休みの冒険は単なるゲームにしか過ぎない。
井上晶子「メガネ同盟」。身近な話題ですらすら読ませ好感が持てる。だが、メメントモリや親鸞が出てはくるものの、中学一年生の世界として軽すぎないか。どうも小学校中学年くらいにしか思えない。そのくらいの学年の物語として書き直せば、いい作品に仕上がるのではなかろうか。倉橋君が「にらにらと」あるいは「にへらにへらと」笑うのは気に入った。

工藤 左千夫
(くどう さちお)

選考副委員長
絵本・児童文学研究センター理事長
1951年生まれ・北海道小樽市在住

●生涯教育と児童文化の接点を模索するために絵本・児童文学研究センターを開設(平成元年)。平成14年、特定非営利活動法人となる。現在、会員数は全国で1300名を超え、2年半にわたる基礎講座(全54回)を開講するとともに多様な公益事業に取り組んでいる。
著書『新版ファンタジー文学の世界へ』『すてきな絵本にであえたら』『本とすてきにであえたら』(ともに成文社)、『大人への児童文化の招待』(エイデル研究所 河合隼雄共著)、『学ぶ力』『笑いの力』(岩波書店 河合隼雄他共著)。 

大賞と佳作の差異と壁

第19回児童文学ファンタジー大賞の選考会も、無事、終えることが出来た。今回は昨年とは異なり、佳作と奨励賞2作、計3作が受賞。残念ながら、今年も大賞は現れなかった。やはり、大賞と佳作の差異と壁は大きいようである。
大賞と佳作の差異を言葉にすることは難しい。かつて、第1~3回まで選考委員を受けていただいた佐野洋子さんのつぶやきを思い出す。胸に手をあてて「言葉じゃないんだよね。ここではわかっているんだけどね」。言葉以外の直観、それを佐野さんは述べていたのである。そこには、現代という時代の嗅覚、それを自らの心に引き受け、展開するだけの物語性と言語感覚、それらを支えるだけの作家の世界観や人間観。さらに作品を通して、日本人とは? 人間とは? などの一種、根源的(哲学的)な思惟行為が要求される。そして、そのような普遍性を読者にも共有される作品こそ大賞の名にふさわしい。
本大賞の形成期では、それらのことについて一致した想いがあった、特に選考委員のメンバーには。流行作家のように直ぐ消えてしまうのではなく、世代を超えてスタンダードとして後世まで残り続ける作品を大賞と考え、それを選考会で選出することに、無上の喜びを感じていた。とはいえ、16年間、大賞不在の選考会が続く。しかし、先ほどのハードルを下げる気は毛頭ないし、その必要もない。かつて、哲学者の鶴見俊輔先生と会したおり、「工藤さん、大賞が出ないことに自信と誇りをもちなさい」と励まされた言葉が甦る。それは、鶴見先生からある出版社主催の賞の選考について伺っていたときであった。メンバーは伊藤整と三島由紀夫、武田泰淳。初回のおり、対象作がなくて選考委員も困惑したが、編集者がこれはという原稿をもってきたそうである。それが『楢山節考(ならやまぶしこう)』とのこと。このように容易に大賞は出ないこと、また出たとしてもスタンダードに名を連ねる作品がいかに少ないか、ということを先生は強調しておられた。

来年度は、本賞創設20年。そろそろ、大賞の冠に匹敵する作品に一読者としてふれてみたい。そう考えているのは、わたしだけではあるまい。
選評については、他の委員が述べつくしていると思う。今回のわたしの感想は藤田委員とほぼ同じなので、藤田委員の言をわたしがくりかえしても意味はない。

小樽の看板である「伊藤整文学賞」と「児童文学ファンタジー大賞」。一地方都市で二つの文学賞を抱えることは、半端な努力では無理である。「伊藤整文学賞」は、残念ながら来年、第25回で幕を閉じる。本紙面を借りて、関係者の今までの苦労と持続してきたエネルギーに対して心から敬意を表したい。


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