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ドーンDAWN3号

1995年12月1日発行
第1回児童文学ファンタジー大賞

応募・選考経過
大賞 梨木香歩「裏庭」
佳作 樋口千重子「タートル・ストーリー」

第1回児童文学ファンタジー大賞の公募は、1994年10月から1995年4月中旬までの期間。(第2回は1996年3月末まで)
最終選考委員会は河合隼雄(委員長)、神沢利子(副委員長)、佐野洋子、清水真砂子、中澤千磨夫、工藤左千夫の6名によって構成された。
応募総数235点。(沖縄県を除き全都道府県から応募)
1次選考で31点が通過2次選考では10点、3次で4点(大賞候補作)が選考されて、最終選考委員に送付された。
候補作は次の作品である。(受付順)

二木れい子「天の音律」
沢村凛「世界の果てから」
梨木香歩「裏庭」

樋口千重子「タートル・ストーリー」
最終選考会は10月22日小樽にて全選考委員参集のもと午前10時より開始。各委員が受賞候補を1~2作推薦する方法で行なわれ、予定時間(2時間)間際に終了。
「天の音律」0票
「世界の果てから」1票
「裏庭」5票
「タートル・ストーリー」3票
審査は「天の音律」の評価から始まり、逐次、票数の少ない作品の順で審議。大賞 、佳作とも満票とはいかず、結果として選考委員会の規約にて決定。(規約…大賞の票決は委 員の3分の2を必要とする。)
結果
大賞「裏庭」賛成票4反対票2
佳作「タートル・ストーリー」賛成票5棄権1
大賞「裏庭」 梨木香歩

36才 大津市在住
略歴 
英国のサフォロンワーデン・ベルカレッジで学ぶ。英国の児童文学者、ペティ・モーガンに師事する。 『西の魔女が死んだ』は、1995年度の日本児童文学者協会新人賞、新美南吉賞、小学館文学賞を受賞。
「裏庭」
400字詰原稿用紙換算枚数・430枚

あらすじ
レイチェル・バーンズは、その少女時代を、開戦の日まで、妹レベッカや父母と共に日本で過ごした。バーンズ家には昔から「裏庭」と称される不思議な世界の継承が代々行われており、その世話をするものを「庭師」と呼ぶ。「裏庭」にはきちんと大鏡を通って行かなければならない、とか、あまりのめり込むと命を縮めるという言伝えもある。レイチェルは「裏庭」を不気味に思い、嫌っている。
だが、「庭師」に「宿命づけられた」妹レベッカは、大鏡を通さずにどこからでも自在に裏庭に出入りするようになり、やがて裏庭の世界を引き寄せすぎて亡くなってしまう。その大鏡は、引き揚げのどさくさで日本の屋敷においてきたなりになっている。
レベッカの婚約者、マーチンは、レベッカがまだ「裏庭」の世界に留まっていると思い、大鏡を通って裏庭に渡るため、戦後日本へやってくる。が、すぐに行方不明となる。
レイチェル・バーンズは、戦後、その地方初の女性の市長になり、自らは独身を通したが、孤見を38人も引き取って育て上げた。今は引退して家政婦と2人で、穏やかな老後を送っているが、何かし残した仕事があるような気がしてならない。
桐原照美は現代の日本の中学生で、両親はレストランを経営しており、学校から帰って寝るまでほとんど1人の生活だ。友人の祐子のおじいさんが(照美は彼が大好きだ)危篤状態ということをきいて、打ちのめされる。おまけに6年前に亡くなった、知恵遅れのふたごの弟の死の原因が自分にあるのではないかと気づき、ショックを受ける。照美はそのまま、祐子のおじいさんからよく思い出話をきかされたバーンズ屋敷に入り、そこで大鏡を見つけ、期せずして「裏庭」の世界に迷い込む。
照美がそこで最初に見たものは、既に死んで長々と横たわる竜の化石だった。
日本へやってきたレイチェルは、幼なじみの夏夜から、他の幼なじみたちの近況をきく。そして仲のよかった丈次(祐子のおじいさん)の病気や、妙(照美の祖母)の不幸な死を知り、胸を痛める。そして、照美の母の幸枝や父の徹夫と共に、行方がわからない照美を探す。
 やがて、現われた照美から、彼女が裏庭でしてきた「仕事」に感銘を受け、レイチェルは、ついに「庭師」を引き継ぐ決意をする。

受賞コメント
漠然と、「人は何のために死ぬのか」というようなことを書こう、と思った。作品は、フル・オーケストラの響き合う交響曲のようなものにしようと思った。だが、それからが地獄だった。
ファンタジーとは恐ろしいものだとつくづく思う。生身の自分がどんどんさらけ出されていく。この、望むと望まざるにかかわらず(大抵の場合、望まない、決して)溢れ出てくる意識下のエネルギーを、人間界に通用する表現に定着させるためには、それと拮抗する意識の制御力が必要だ。
今回の受賞作品は、私の力では、作品として体を成すぎりぎりのところだったと思う。「テルミィ」ではないが、「暴れ馬のような服を着こなす」ための力量不足を痛感した。粋とか、洗練とかいう言葉とは縁遠いものに仕上がってしまった。その生臭さに閉口される方もいらっしゃると思う。どれだけリファインされているかと問われると、うなだれるしかない。
ただ、この選考委員の顔ぶれを前に、自分をごまかすわけにはいかなかった。それは、「児童文学」というものに対しても同様である。
1つの作品が「子ども向け」であるかどうか、という物指しは、現実にはとっくに消失している。人工甘味科で味付けされた(大人の考えた)お子様用作品なんて、このとんでもない現代社会に生きねばならない子どもたちの興味をひくわけがない。子どもにそんなひまはない。新しい児童文化の波が起こるとすれば、そこに必要とされているのは、本物の詩であり、宝石であり、苦悩だ。それは、大人だから子どもだからという次元を遥かに 越えている。
正直なところ、大賞をいただいた喜びよりも、引導を渡されたずっしりとした重みの感覚の方が強い。この感覚を、私の唯一確かな足場としてこれからの仕事に向かおうと思う。
佳作「タートル・ストーリー」 樋口千重子

32才 北九州市在住
略歴 
九州大学文学部英文学科卒 ニューヨーク大学教育学部大学院卒(英語科教育法修士) 現在ニューヨーク外語学院勤務
「タートル・ストーリー」
400字詰原稿用紙換算枚数・140枚

あらすじ
ディビッドは学校の成績がずば抜けてよかったために3年生の1学年を抜かした(飛び級)が、そのためにクラスで仲間外れになってしまう。1人ぼっちのディビッドの友達になってくれたのが、日本人のマモルだった。マモルは日本から連れてきた亀を持っていたが、父親の転勤で、又、日本に帰る時に、その亀をディビッドに譲っていく。
マモルがくれた亀は、実は人間の言葉を話せる亀だった。ディビッドは、マモルが帰国した後はタートルとだけつきあい、もう学校にもどらない決心を固める。他の子供たちとの聞係の中で傷ついたディビッドには、タートルだけが唯一の友達になっていった。
だが、タートルは、そんなディビッドの様子を心配し、エリカがディビッドの新しい友達になりそうな気配を察して、自分はディビッドの元から去ってゆく。

受賞コメント
最終選考会の当日、わたしは勤務で電話の前にはりついていることができず、日曜日も勤務があるわたしは、それをいい口実にし、電話待ちの役目は母親に任せ、オフィスにさっさと逃げ込んでしまいました。選考会が始められた10時から、時々、壁の時計にちらっと目をやりながら、いつものように仕事に向かってはいましたが、時計の針が11時を回った頃から、次第に気が気ではなくなりました。 「佳作に入ったよ。」
母からの、その一報を耳にした時は、何よりほっとしたというのが正直な感想です。
わたしにとっては、初めての受賞でした。
文学に志すようになったのは、大学を卒業して、イギリスで初めての海外生活を体験してからのことだと思います。いつも重い雲に閉ざされた低い曇り空の下、ひそやかに時間が流れるロンドンの街で、わたしはいつしか、自分の中で砂時計のように積もっていく感動を文章で表したいと願うようになりました。しかし、それだけでは、子供のたわいない夢と同じです。自分でも何を馬鹿なことを思いついたのだろうと、心の中に小さく生まれた新しい命を、ひとごとのようにぼんやり眺めているような感じのまま、帰国しました。それから20代の後半の日々、小さな、たわいもない作品を書き散らし、そのたびに、自分の力のなさを、他でもない自分がなによりも思い知らされ、もう、こんな馬鹿なことはやめよう。わたしには才能がないのだからと、何度思ったか知れません。それでも、なぜか書くことがやめられない。好きとか嫌いとか、そういう単純な思いでは既になくなり、誰に強制されるわけでもない、心の中の内なる声の、それは命令のように思えます。
書くことがやめられないなら、ただ書くしかない、書きつづけるしかないという、シンプルな、腹がすわったような気持ちに、ほんとうに辿りついたのは去年あたりからです。最初に書きたいという小さな願いを心の中に宿してから、8年もたっていました。今回の受賞は、そういう境地に至って、初めて得た客観的な評価です。素直に嬉しいです。これを、さらに、プロの表現者を目指すための最初のきっかけとし、これからの励みにさせていただきたいと思います。ほんとうに有り難うございました。
審査員選後評
わが国におけるファンタジーへの関心の高さを反映しているファンタジー大賞

河合隼雄
選考委員長
現在国際日本文化研究センター所長/京都大学名誉教授/本センター顧問/臨床心理学者
●世界的な臨床心理学者として著名であり、著者も多数。岩波書店より著作集全14巻。 豊富な臨床体験と東西文化の比較、ユング心理学等の深い洞察を通して独自の世界を構築中。奈良市在住。      

今回のファンタジー大賞の公募に対して、沖縄以外の全都道府県より応募があり、応募総数が235点もあったことは驚きであり、喜びであった。
わが国におけるファンタジーへの関心の高さを反映していることと思われる。そのなかで最終選考に残った4作はさすがにいずれも力作であった。
その中で受賞作となった、梨木香歩さんの「裏庭」は1段抜きんでており、ファンタジー大賞の名にふさわしい作品であった。日本においても、本格的ファンタジーが書かれるようになったと感じて、非常に嬉しかった。
主人公の照美という少女が、言わば女3代の重みを背負っているようなところは、現在の状況をそのまま描いている、と感じられた。照美は癒しのための長い「裏庭」の旅を経験する。そして、それは彼女個人の旅ではなく、多くの日本人を代表しての旅でもあった。
照美の体験した過酷な旅の出来事を、共感しつつ読んだ。それらをひとつひとつ「 分析 」することはしなかったが、多くのメッセージが私の心に伝えられるのを感じた。終わりのあたりで、心臓の音が「亡び」の音であると共に「建設」の音でもある、という認識には、深い感銘を覚えた。
佳作の『タートル・ストーリー』は、異文化体験をうまく生かして、人間の心の底に普遍的に存在するはたらきがうまく描かれている。話の運びもなかなかよく出来ている。
『天の音律』は、全体的な構成はなかなかよく出来ているが、個々のことがらの描写の筆に力がこもりすぎて、読者の心の歩みを引きとめ、読みづらいものにしている。あらたな構想で肩の力や腕の力を抜いて、また挑戦していただきたい。
『世界の果てから』の作者は、頭のいい人なのだろう。考える力に頼りすぎている。おそらく推理小説などを書くと成功する人ではないかと思われる。
どの作品もカタカナの名前の人たちが活躍する話であった。日本名の登場人物ばか りで ファンタジーを書くとどうなるのだろう。これは別によしあしの問題ではなく、単純なよ うで深いことにつながる問題とも思われる。
ファンタジー大賞に多くの佳作が寄せられたことをうれしく思います

神沢 利子
選考副委員長
現在 児童文学作家
●日本を代表するファンタジー作家であり、創作活動における真撃な姿勢と根源を求める感性は衰えることを知らない。
大人・子どもの境界を越えた多くの愛読家の存在は、神沢文学の無限の可能性を知らしめるものである。東京都在住。  

最終審査にのこった4編のうち「世界の果てから」と「天の音律」は、双方とも架空の国を舞台にしながら、いろんな意味で対照的な作品でした。
「世界の果てから」は、ぐんぐん読み手を引っぱっていく力があります。かきたいこともはっきりして骨太な作品ですが、何としても文章の粘さが気になります。かよわい少女の荒野の旅-の困難さが目にみえてこないし、ほかにも気になる箇所がありました。力のある方なのでもっと文学としての表現を考えていただきたいと思いました。
「天の音律」最初はとても文になじめず読み難かったのですが、読み進むうち面白くなりました。空神ゆかりの聖弦をめぐる王家の物語-丁寧な文でゆったり織られた作品です。多様な登場人物による華麗な長編をかきあげた力量は、なかなかのものと思いました。心ひかれる場面が幾つかありましたが、物語を作る上での無理も目立ちました。聖弦を響かせることで空神をなだめ、世界の調和が戻ること、3つ子が共に昇天する結末でよかったのかという疑問も残りました。
「タートル・ストーリー」今を生きる子どもが主人公にぴったり寄りそって読める作品。子どもの抱く切なさを改めて思いおこしました。しかし、語りは子どもの声ではじまりながら、時に大人が顔をだします。回想にしても視点を据えてほしい。この作品のよさを認めながらも、生きているカメのいきいきした描写に出会えない不満があります。そして、小さい時からカメを育て苦労してアメリカまでつれてきたマモルには口をきかずなぜディビットにだけ口をきき、親しく喋り合ったかというカメヘの疑問は最後まで残りました。
「裏庭」はそのさりげないタイトルから浮かぶイメージとは違って、わたしの想像をこえた作品でした。読みながらこの作者は近頃話題のトラウマを主題にして、人の抱える傷や癒しについてかこうとしているのだろうかと思いました。これだけの物語は決して頭だけでかくことはできません。わたしは作者が少女照美のように裏庭に入り込み、裏庭とはつまり自分の作品世界であり、だから自明なとは云えない無意識の混沌の世界を、まさにテルミーとよびつつ旅をし、切ない体験をしたのだと思います。さまざまな人々の生はそのままドラマであり、宇宙樹の根のようにからみ合った世界は時に難解で、読み手を立ちどまらせます。しかし、この物語は作者にとって未完のドラマなのでしょう。バーンズ家所有の裏庭は個人のものでありながら、カギはかけられていない。豊饒な大地は次に誰をまつのか問はのこされています。この力作を推します。初めてのファンタジー大賞に多くの佳作が寄せられたことを審査員の1人としてうれしく思うものです。
現在の日本人しか書けないファンタジーが誕生するのを楽しみにしています

佐野 洋子
選考委員
現在 絵本作家
●『おじさんのかさ』『100万回生きたねこ』等、独特で且、心を打つ作品群は絵本文学と呼ぶに相応しい。また、軽妙な工ッセイ群も氏の豊かな感性を物語り、その本音(毒舌?)の前ではオブラートなど通用しない。東京都在住。

もうずっと前から、日本人は、気分はすっかりヨーロッパ。お考えの素もあちら側からやって来るのが正しい考え何でも真似するのが新しいと思っておりますので、ついに本格的ファンタジーを日本から生み出そうと勇ましいことになりました。
私は、これは無理と少しとびのきスカートをめくって逃げようとしましたが、こわいもの見たさで、ふと立ちどまってしまいました。
最終作品4点を読み、私はウーンと驚きさすが日本人、よくぞここまで、全く日本人忘れられるということに関心しました。その物量的生産性にもタジタジと致しました。しかし多分これは日本人も国際的になったと評価せねばならないのだと、私は心を入れ替えました。(私はもしかして右翼だったのかもしれぬ)
「タートル・ストーリー」が良いと思いました。これは本当に日本人がすでに国際的に生きざるを得ない裏うちから生まれたリアリティーがありました。主人公の夕-トルが実に魅力的で楽しかった。そして何より子供の孤独、特にカメを残して帰った日本人の子供の孤独が印象的でした。セントラルパークの散歩、大都会の駅の混雑と混乱、タートルが女ことばを話し始めたときの意外な驚き、タートルストーリーには物語を読む時に感じるカタルシスがありました。誤字脱字文章の荒さなどが指摘されましたが、そんなものは直せばよい、文章の荒さなど時間をがければ、ていねいになります。ていねいで美しい文章でも面白く生き生きしてなければ死んだも同然なのです。唯、最後の部分、大人になってからの部分は無かった方が、よかったと思います。物語をちいさくしていると思いました。ファンタジー→壮大な物語と考えがちですが、1人の心の中は充分に壮大です。大げさな道具だてのないタートルストーリーは素敵なファンタジーで、うれしかったです。
「裏庭」大賞おめでとうございます。
私には、この閉ざされた不健康さを受け入れられませんでした。
水準の高いものだと思いましたが私達はどんなことをしてもこの閉ざされた世界をカを尽くして打ち破らなくてはならないのだ。それは多分日本、世界がその様な困難な状況だからだとおもいます。
「古事記」の壮大な神話を持ち、かぐや姫やうらしま太郎、お地蔵さんからおいなりさん沢山の独特なおまつりを持つ日本固有の宇宙をいつか「ゲド戦記」やエンデの作品とは違う現在の日本人しか書けないファンタジーが誕生するのを楽しみにしています。 しかし、人の作品を偉そうにアレコレ云うのはしんどく大変なことでした。
ファンタジーは緻密なリアリズムに支えられて成立するものだとあらためて感じました

清水 真砂子
選考委員
現在 評論/翻訳家
●「ゲド戦記」(1~4巻)の訳者として、その翻訳の力量は周知である。
また、『子どもの本の現在』等、評論分野での評価も高く、氏独自の観点から子どもと大人、性別等の境界を取り外し新たな地平を模索している。掛川市在住。  

小樽という街に憧れ、他の選考委員の方々の魅力に抗うことができず、選考委員会の末席に加えさせていただいたものの、私には大役に過ぎた、というのが、選考を終えて、茶畑にかこまれた静岡の小さな田舎町に帰り着いて、まず思ったことです。選考委員なんぞお引き受けして、何とまあ恥知らずな、といささか自己嫌悪に陥っています。
さて、応募作235点余りから選ばれて最終選考に残った4点はどれもさすがに力作でした、というべきでしょうが、実は1点だけどんなに努めても最後まで読みとおすことのできない作品がありました。賛成5、棄権1で、佳作に選ばれた樋口千重子さんの「タートル・ストーリー」です(棄権1が私です)。児童文学のファンタジーとしては素材もテーマも、これはいけそうだと思って読みだしたのですが、ことばのひとつひとつにつまずいてしまいました。ことばの使いかたがせっかちで、粗く、常套句が出てきたり、現代の風潮に対する媚ではないかと思われる言いまわしに度々出くわして、どうしても前に進めなくなってしまったのです。その障害をこえてストーリーをたのしむまでに至りませんでした。でも、他の5人の委員はたのしめたのですから、ひょっとしたら私の読みに何か問題があったのがもしれません。
勤務先でも時間を盗んで読みふけったのは沢付凛さんの「世界の果てから」でしたが、残念ながら、読み終って、やはりことばの粗さ、構成の粗さが気になりました。でも、ぐいぐいと読者をひっぱっていく力には脱帽しました。上野瞭の『ちょんまげ手まり歌』や『目こぼし歌こぼし』を食事する時間も惜しんで読んだことを思い出しました。
二木れい子さんの「天の音律」は何かあるのではと辛抱を重ねて最後まで読んだのですが、期待には応えてもらえませんでした。アニメーションを見る感じがしました。これは沢村さんの作品の場合にも言えることですが、ファンタジーは緻密なリアリズムに支えられてようやく成立するものだということをあらためて感じさせられました。
大賞を受賞した梨木さんの「裏庭」を読んで、たいへんなことばの使い手があらわれたと思いました。梨木さんの第1作『西の魔女が死んだ』ですでにそれは感じていましたが 「裏庭」でその感をいっそう強くしました。ただひとつ気になるのは、字面では最後よき方向に作品世界がむかっているのに、読後時間がたつにつれて、この作品世界にひそむ病みの深さがじわじわと感じられるようになったことです。いや、それを病みと名づけていいのかどうかさえ、まだ私にはわかりません。余りに洗練されすぎているゆえに、と書きかけて、そういえばこの作品にはワイルドなものがなく、いつも世界はしめって、ひそやかだった、と思い出しました。でもそれはどうもイギリスの風土のしめり気とも日本のそれともちがうような気がします。この病みと名づけたい何かが私にこの作品を「児童文学ファンタジー大賞」に推すことをためらわせました。この問題は時間をおいてもう1度考えてみたいと思います。
そうそう、最後にひとこと。今回は大賞も佳作も異文化体験のある書き手の作品でしたが、それなしにファンタジーは書けないなどとどうか来年をめざす方々がお考えになりませんように。この慣れしたしんだ日本の日常に驚くカもまだ私たちの中ではそうそう萎えてしまってはいないはずですから。
読み手に場面を彷彿とさせる力を感じる

中澤 千磨夫
選考委員会幹事
現在 北海道武蔵女子短期大学助教授/本センター評議員
●永井荷風、谷崎潤一郎などを専門とするが自らの専門にとどまらす、授業ではユニークな世界に取り組む。また道内新聞紙上での書評・時評は評価が高い。近々『荷風と踊る』 が刊行予定。小樽市在住。  

佳作に選ばれた樋口千重子「タートル・ストーリー」を、私は、もっとも楽しく読んだ。
浦島や『モモ』のカシオペイアを持ち出すまでもなく、そもシンボルとしての亀は、私たちを異空間へ誘うアンドロギュノス。だから、亀吉と呼ばれていた夕-トルが、雌だったというのも納得できる。亀の甲羅自体が世界を表すわけだから、タイトルを、天/地、男/女の「トータル・ストーリー」と解くこともできそうだが、実際には、そこまでスケールは及ばない。その亀が、突如人の言葉を話し出す。このあたりのリアリティーを疑う神沢利子さんの強い意見もあったが、私には、わりと素直に納得できた。不思議がひょいと現出することもある。
この作品が何より良いのは、読み手に場面を紡佛とさせる力だ。たとえばマンハッタンの町並み(私自身は知らない)。応募当時、作者がニューョークに住んでいたという事実のみによるのではない筆の力だ。異文化接触という、この物語のライト・モチーフにもつながる。また、海洋学者とダディの飄逸な会話。かようなセンスを、私はおおいに買いたい。竹取や魯迅の「故郷」を連想させる満月の大尾。来るな来るなと分かってはいたものの、やはり、私は感動してしまった。「シャリリ。シャリリ」と、タートルがウォーターメロンをかじる音までが聞こえてきそうだ。
とはいえ、清水真砂子さんは、最後まで読み通せなかったという。清水さんの批判は本質的なもので、「子供の残酷さというのは、あまりにも無垢で無邪気な分だけ始末が悪い。 天使のように愛らしい笑顔で、相手の心の傷の深さに斟酌しないで、いくらでも残忍になれる可能性も子供は秘めている」といった、安手の人間観・子ども観に我慢ならぬということだ。そのよってきたるところは、語りの視点が、成長後の現在にあるためではないか、というのが、選考委員の一致した見方だ。
さらに加えれば、本作には、応募原稿として決定的な傷があった。ミス・トリンジャーがミセス・トリンジャーに変身してしまうミステリアスなミス(笑)。助詞の誤用、冗語など数え切れない。出版にあたっては、かなりの手直しが必要となろう。本来ならば、第3次選考まででふるい落とされても、文句はいえないかもしれぬのだが、救ったのは、これらを補ってあまりあるセンスというものか。
大賞に決まった梨木香歩「裏庭」。この作品には、癒し・救いがなく、絶対に推したくないという佐野洋子さんの猛反と、大賞の水準に達しているだろうかという清水さんの疑問があり、投票にもつれこんだ。
私は、日本のファンタジーのスタンダードを導く快作と思う。全体に気品というものがある。まず、さりげなく、なおかつ奥深そうなタイトルからして良い。そういえば、作者の前作『西の魔女が死んだ』(1994年、楡出版)で、おばあちゃんが丹精していた裏庭は、主人公にとって、大切な場所だったではないか。知ってか知らずか、自作をトレースしてしまうことは、よくある。読み手にとって、そんな糸の連続を見つけることも喜びである。
また、backyard(裏庭)は、backward(後方ヘ、発達の遅れた)に重なり、時間をさかのぼる物語構造や、死んだ双子の弟・純を想起させる。最後に「裏庭」(バックヤード)とルビを打つことで、語り手は、枠な音遊びを明かしてくれる。 
特筆しておかなければならないのは、物語が、つねに、近代の劣等感覚である〈におい〉によって導かれることである。「純は何でも一応口で触ってみる癖があった」という皮膚感覚も同様。〈身体性〉の復権といってしまえば、いかにも今日の情況や思想性にみあっていそうで、野暮になってしまうけれども、裏庭が、「死の世界」、「生と死の混淆のような場所」として提出されるのも、世紀末=現在のファンタジーが負わなければならぬ十字架のありどころを示しているということなのだろうか。
白熱した議論が続く選考会でした

工藤 左千夫
選考委員会代表幹事
現在 絵本・児童文学研究センター所長
●生涯教育と児童文化の接点を模索しつつ本センターを1989年に小樽で開設した。現在総会員数700名を越え、2年半に渡る54回の講座を行うとともに、多様な公益事業に取り組んでいる。小樽市在住。  

本大賞最終選考会では白熱した議論が延々と続いた。
選評からは各委員の個性や文学観・人生観もうかがえるので、皆さんのご意見が楽しみだった。
さて、下記の順で私の意見を述べていきたい。  「天の音律」(二木れい子)
本作品は、募集作品中、538枚と最も原稿枚数が多かった。これほどのボリュームヘの挑戦には敬意を表したい。しかし、長編維持のヴィジョンは容易ではない。長編の展開には、その統一性の確保の困難さとバリエーションの不均衡という危険が常に付きまとう。本作品がこの危険性を凌駕できたとは思えなかったし、このストーリーで500枚は本当に必要だったのだろうか。1人よがりの展開も節々にみられ、その点で不満が残った。
今後を期待したい。    「世界の果てから」(沢村凛)
読む者を一気に読み進ませる文章力と構成力は評価したい。選考会でも話題になったが、この作者が、ファンタジーとは別に「推理小説」を手がければ高い水準の作品が得られるのではないか、という期待を抱かせた。
本作品は一気呵成に読ませる力を備えているものの再読の際にはいまひとつ味わいに欠ける感をぬぐえなかった。これが受賞作と本作品の達いである。この違いは、些細なようで極めて大きい。  「タートル・ストーリー」(樋口千重子)
佳作の受賞作品である。本選考会では、どの作品についても満場一致の結果が生じなかった。当然といえば当然のことだが、これこそが健全な選考会であることを実感した。
本作品に関しては評価が大きく分かれ、ある委員は中途で作品を放棄したとも述べている。
さて、本作品の根底には異文化との人間の関わりの問題が主調音として流れている。異文化接触の境界で、主人公が友人や家族との交流をとおし、その中での喜びや悲しみと向き合いながら生きていくさまを、異類であるタートルを絡ませながら奏でる変奏曲といったおもむきの作品であった。このタートルのキャラクターをどう描くかについて作者は苦心したことだろう。その苦心が成功したとは言い難いものの、再読してみたい気を起こさせる力を備えていた。
これは小言になる。応募期限ぎりぎりの飛び込み応募のためか、誤字・脱字そして名前の誤りなど、推稿の不十分さが目についた。次回は、内容以前の問題をきっちりとクリアにして樋口さんにはぜひ応募して欲しいと考えている。  「裏庭」(梨木香歩)
大賞受賞作である。これも佳作と同様に評価が大きく割れた。佐野、清水の両委員から辛口選評がいただけるであろう。
ファンタジーには内的世界の突出が求められる。大団円にいたる経緯には偶然的契機が介在する。そして主人公が、みずからの置かれた閉塞状況をどう打開していくか、また、そこで展開された心のたたかいがどのような普遍性を獲得していくかがポイントとなる。本作品がこのようなファンタジーの課題に、充分応えるほどの成功をおさめているかについては、いまだ疑問視されるところである。おそらくこの課題は梨木さんの前作『西の魔女が死んだ』でも同様であり、作者も自覚しているところではないだろうか。
しかしながら、梨木さんには多くの課題をクリアし、今後のファンタジーのみならず、児童文学界の一翼を担っていくだけの力量があると思われるし、その期待が大賞につながった最大の因であると考える。
最終選考傍聴記
なんともスリリングでした

平原 一良
北海道文学館専門職員
本センター評議員/第3次選考委員  

前夜の懇親の宴は3次に及び、立花峰夫さんと南小樽までタクシーを飛ばして列車に乗り込んだ。最終選考当日は睡魔をなだめながら、自分でハンドルを握り小樽へと急いだ。高速道に入ってからは、「お休み、さあ」と囁きかける眠りの魔女とたたかいながら、わがかぼそい神経は緊張しどおしだった。
というわけで、最終選考会場の小樽グランド・ホテルに滑り込んだときには、正直疲労感が全身を蜘蛛の巣のように覆っていて、はたして最後まで居眠りせずに掛けていられるだろうか、トースト1枚とコーヒー1杯の朝食で昼まで腹がもつだろうかと、まことに不謹慎な不安を拭えないのだった。
工藤左千夫さんの挨拶は短いもので、そうそう、挨拶とお経は短いに如くはないのだ、とうれしさを覚えながら、さあ、前夜に増して豪華な饗宴(シンポジウム)のごとき最終選考会。3次選考での私の見立てやいかに。
候補4作のうち2作はあっさりとフルイにかけられ予想どおり樋口千重子さんの「タートル・ストーリー」と梨木香歩さんの「裏庭」に議論が集中した。前者について佐野洋子さんが「世界は小さいがファンタジーである。最初から男の子が生きて動いている」と推奨されたので、フムフム。中澤千磨夫さんの「いちばん好きな作品。アラが目立つが、映像もよく浮かんでくる。センスよし」とこれまた3次選考の激賞を凌ぐほめように、ナルホド。しかし清水真砂子さんは「途中で放棄した」と言い、神沢利子さんも「〈大人〉が顔を出す箇所が気になり、落ち着かない」と否定的な見解で、このあたりからオヤマアと、つまり失礼な言い種ながら、皆さん本気も本気、迫真の議論への期待がふくらみ、睡魔を追い払うことができたのだった。右の皆さんの見解は、もとより氷山の1角。その全体は、確実にタイタニック号の遭遇した氷山以上に大きい。河合隼雄さんの「スラスラ読めたが、スケーリングは小さい。大賞にはどうか」とのひと言には、頷くほかない。
さて、本命とひそかに思い定めていた「裏庭」に踏み込むにいたって、議論はさながらバトル・ロイヤルの様相を呈し、流れ流れて落ち行く先はどこであろうが、と耳を耳にして議論の帰趨をひたすら気にする結果となった。
いずれこの選考のプロセスは公刊されるとのことだから、子細はそちらに譲るとして、とりわけて清水、佐野お2人の率直かつ厳しい発言は、ヤーコブ・グリムが『ドイツ神話学』のなかで述べていた(のだったか)ヴァイゼ・フラウを連想させるに足るもので、神沢さんがフェーに当たるのかどうかはともかく、まさしくファンタジー大賞の産みの苦しみを象徴する迫力に満ちていた。 いずれ時が来て解き明かされるであろう選評中の「裏庭」への苦言の数々は、しかし、梨木さんへの工―ルにほかならないのだ、と現在私は思っているが、もし作者が最終選考の場に臨んでいたならば、あるいはかなり辛いものを味わったことだろう。会場に漂ったなんとも重苦しい緊張感。背中しか見えない立会人の皆さんの身じろぎひとつしない姿は、禅堂に端坐する修行僧であるかに私の眼には映り、大賞ははたして決まるのかとの予期せぬ不安が一瞬周囲に漂ったように思えたのだった。スリリングな10数分だった。
結論は名伯楽・河合隼雄さんの「ファンタジー大賞は、これからの作家のための登龍門なのです」というみごとな括りの言葉から導かれ、会場にみなぎる緊張感はようやく解けた。そこにいたるまでのおそらく空前絶後の激論は「これぞファンタジー論」と呼ぶにふさわしい熾烈を極めるものであった。
作家が、批評家が、そしてなにより読者が直面する時代閉塞の現状をシンボライズする作品、それが第1回児童文学ファンタジー大賞を受賞した梨木さんの「裏庭」である。病める現代人を癒すに足るパワーは「裏庭」の彼方にさてあるのだろうか、と懸念しつつ窓の外を見遺る。はるかに広がる石狩湾、日本海の珍しく明るいブルーを眼にして、あらためて睡魔が空腹の私の中で頭をもたげた。


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