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ドーンDAWN4号

1996年11月1日発行
第2回児童文学ファンタジー大賞応募・選考経過

大賞
核当作品なし
佳作
伊藤遊「なるかみ」

第2回児童文学ファンタジー大賞の公募は、1995年10月から1996年3月31日までの期間で行なわれた。(第3回は1997年3月31日まで)
応募総数173点
1次選考において31点が通過、2次選考では10点、3次選考会においては次の5点が大賞候補作となり、最終選考委員に送付された。
二木れい子「赤い大陸」
森美秋「けやき森の物語」
森谷桂子「鶴の天衣」
伊藤遊「なるかみ」
樋口千重子「幻の里のキクちゃん」
最終選考委員会は河合隼雄(委員長)、神沢利子(副委員長)、佐野洋子、清水真砂子、中澤千磨夫、工藤左千夫の6名によって構成され、1996年9月29日、小樽にて選考会が開かれた。
選考会は、大賞推薦の作品の有無から始まり、結果としては大賞の該当作品無しということで、全選考委員の意見が一致。
次に、全選考委員が1~2点を推薦する方法で佳作該当作品の票決に入る。
「なるかみ」5票
「幻の里のキクちゃん」2票
「けやき森の物語」1票
結果
大賞 該当作品なし
佳作 「なるかみ」
(追記)
第1回児童文学ファンタジー大賞
大賞『裏庭』梨木香歩(理論社)刊行
佳作「タートル・ストーリー」樋口千重子(近々、理論社より刊行)
第2回児童文学ファンタジー大賞
大賞 該当作品なし
佳作 「なるかみ」伊藤遊(刊行未定1996年11月2日現在)

佳作「なるかみ」

伊藤遊
札幌市在住 36歳
略歴 1959年 京都市生まれ
1982年 立命館大学文学部史学科卒業
1982年 京セラ株式会社勤務
1984年 同社退社結婚
現在 無職 2男の母

あらすじ
春休み、聡は祖父母の住む京都へ遊びにやってきた。東京の私立中学受験に失敗した聡は、母が合格祈願をした神社をめぐる。下鴨神社のある糺の森で出会った、白い衣の不思議な青年は、まるで神様のようにふいに現れて、ふいに消えた。傷を負いながら、何かと闘っている様子だったのが、聡の気に掛かる。
祖父母といっしょに花見に出かけた聡は、龍が棲むという神泉苑で、再び青年に出会う。彼の正体は京都の産土神、「賀茂別雷命」(かもわけいかずちのみこと)だった。
千年前に陰陽師が呪いで封じた疫神や邪霊たちが、いっせいに甦ったのだという。千年という永い時を経て、術の力がなくなったのだ。神域を選ぶようにして荒らし回る悪鬼らと闘う命は、なぜか苦戦していた。
陰陽師が安倍晴明であることを確かめに、聡は一条掘川へ行った。千年前に晴明が「戻橋」の下に残した式神と出会う。しかし聡の目の前で武神は力尽きた。術が破れ、封じられていた「水蛇」が掘川からあふれ出て聡を襲った。危ういところを命に助けられるが、不死身であるはずの命は傷つき力をなくしていた。
命が甦るためには、父神である「火雷神」(ほのいかずちのかみ)の降臨がなければならない。父神を招き、その力を得て、命の新しい生命が生み出されるためには、「巫女」の存在が必要だ。それは今は存在しない「斎院」の役目だ。
蛇の毒気にあてられた聡は高熱をだして寝込むが、式神の残したカケラで回復する。父神をさがすため貴船をめざす聡に、姉の恋人の遠藤が協力してくれる。しかし貴船の山には蜘蛛の姿をした邪霊が巣食っていた。危機に陥った彼らを救ったのは、やはり命だったが―――。
その時突然の父神の降臨。命の復活のために、聡は姉を差し出せと言われる。抵抗する遠藤と聡は、命の怒りを買ってしまった……。

受賞コメント
本を読む側ではなく、書く側にまわるとどうなるか―――。夫が使わなくなって久しいワープロを見つめながら思ったのは、2年あまり前のことでした。
しかし実際にやってみると、それはやはり難しく、最初はごく初歩的なことに躓きました。恥ずかしながら、原稿用紙の使い方とか、ワープロの操作方法などにです。物語を完成させるには、課題が山積みでした。
どうにかこうにか初めての「物語」らしきものができあがった時、私はその仕事の楽しさに魅せられました。それは縦糸に好きな色の横糸を通して織物を織り上げる作業のようでもあり、あるいは、必ずここに埋まっているはずだと信じて掘る、気の長い発掘作業のようでもありました。
次に、誰かに読んでもらって評価を得てみようと思いました。この賞は原稿枚数や対象年令の規定がゆるやかだったので、取り組みやすいように思われました。(書き始めてから、そうではないと気付いたのですが)
受賞の電話をいただいたあと、じわじわと不安がこみあげてきました。いきなり幸運に恵まれたため、当然あるべき研鑚の日々があまりにも短すぎるのを、自分自身が一番よくわかっているからです。しかし今は、その不安にあえて目をつぶろうと思います。何かをしなかった日々を悔やんでも始まりません。(それに、悔やまなければならないような日々ではなかったのです)今からやるしかありません。萎縮してしまっては「おもしろい物語」が書けないと思うからです。
おもしろい物語を読むのが好きなので、私もおもしろい話を書きたいと思います。書きながら絶えずおもしろいかな?」と自問します。今回幸運にも「おもしろかった」と言っていただき、歩いて行く道が照らしだされたような気がします。作中の言葉を借りるなら、まさに「天の恵」です。ありがとうございました。

審査員選考評

大人のための文学に比肩し得る作品を

河合隼雄
選考委員長
現在 国際日本文化研究センター所長/京都大学名誉教授/本センター顧問/臨床心理学者
●世界的な臨床心理学者として著名であり、著書も多数。岩波書店より著作集全14巻。豊富な臨床体験と東西文化の比較、ユング心理学等の深い洞察を通して独自の世界を構築中。奈良市在住。

今回の最終選考に残った5作は、さすがにある水準に達している力作であった。しかし、残念ながら大賞に推せる作を見出すことができなかった。大人のための作品としては少しもの足らないので児童文学としてという発想は絶対に困る。大人を驚かせる「子どもの透徹した目」で見る世界を描いているが、その構成や文体などは大人のための文学に比肩し得るものでなければならない。
佳作受賞作の「なるかみ」は、丁度思春期に入る男子の姿がよく描かれていた。その内面を語るにはファンタジー作品はふさわしい。ただ、女性の心のなかにある少年像ということもあって、表現がステレオタイプになっているところがおしい。京都の伝説、町、などがよく生かされている。これは作品が成功するための原動力になっている。少し疑問に思うのは、ただ1人の神のみが悪鬼と戦うことである。日本には八百万の神々が居るので日本の上に根ざしたファンタジーを試みるともう少し展開も異なったかも知れない。
これの次に「幻の里のキクちゃん」が私は好きであった。父母の不仲に悩む少女とその弟の姿が非常によく描かれている。このような状況に苦しむ子どもたちが、これからの日本には増えてくると思うので、これは大切なテーマである。この子の救いが夢によってもたらされることも、私には納得がいく。しかし、老人の夢に子どもが入りこむという点では、ピアスの『トムは真夜中の庭で』という傑作が既に存在しているので、どうも2番煎じの感じを受ける。前半に示されたテーマをかかえこんで、もう少し長い時間暖めていると、もっと豊かなファンタジーが生まれてくることと思う。じっくりと取り組んで欲しい。
「けやき森の物語」は、作者が草や木や森などの自然を愛する人であることがよく伝わってくる。それから生まれてくるファンタジーにもっと身をまかせた方がよかったのではないだろうか。「環境汚染」という概念に引っ張られたので、作品が底の浅いものになってしまった。残念である。
「鶴の天衣」は、やはり「鶴女房」の民話の重みがあるので、それに負けている。むしろ「鶴女房」は全体の器として用いて、そのなかで丈長姫とかあやとかの女性が活躍するようにした方がよかったのでは。これに与一とツルも出てくるので、話がややこしくなった感じがする。
「赤い大陸」の作品は、文章力も構成力もあるが、最初に述べたような意味での「子どもの眼」の視座が欠けている。児童文学以外のジャンルに挑戦される方がいいのではなかろうか。
ファンタジー作品を生み出すのは大変な仕事である。どの作者ももう少し素材をかかえ時間をかけて熟成させるようにして欲しい。作品にするのを少し焦っているようだ。

力作ぞろいで困りました

神沢利子
選考副委員長
児童文学作家
●日本を代表するファンタジー作家であり、創作活動における真摯な姿勢と根源を求める感性は衰えることを知らない。
 大人・子どもの境界を越えた多くの愛読者の存在は、神沢文学の無限の可能性を知らしめるものである。東京都三鷹市在住。

今回は大賞に推す作品はなかったのですが、最終選考に残った5編は何れも力作ぞろいで甲乙のきめ難いものでした。
読むうちに心がやさしくほぐれてゆき、幸せな思いをしたのは「けやき森の物語」でした。文章もたしかで作者が松本平の自然と、樹木を愛する気持が伝わってきます。
しかし、後半、水の汚染の問題が出てきてから無理が目立ちました。解決の方法が納得できるものでないので、子どもたちの冒険も作者の力みに終ったようで残念でした。それをのぞけば期待できる作家です。次作をお寄せ下さい。
「赤い大陸」こぶ牛の隊商とは初めて聞くことでしたが、ぐんぐんひかれて読み終りました。大変面白かったのですが、読後の疑問はこれが少年少女を対象としたファンタジーといえるだろうかということで、作者の力量はほかの分野で十分に発揮されそうです。
「鶴の天衣」さながら絵巻物を見るように、くりだされる物語を堪能しました。「鶴女房」をもとにしたその後日談で、天衣を得た2人の女性、特に丈長姫の創造は生き生きと魅力あるものでした。作者の愛情はひとりひとりに注がれ「鶴女房」の悲劇が鳥の姿のツルとくらす与一の静かな幸せに変っています。それが物語を成功させたかといえばどうでしょうか。難しいところです。
「なるかみ」この主人公の少年のように自分の心理を一々説明する男の子が身近かにいるので、思わず笑ってしまいました。京都を舞台にして語られる物語ですが、これだけ魅力ある素材がありながら、もう少しふくらみそうなものと、それが惜しまれます。この命があまりに孤独で斗っていること、助けるもののないことも、その一因でしょうか。京都という土地に限定したために物語はすっきりしていて、しかも、仙台に移る少年がその地の守護神に詣でると言うことで、他の土地にも在り得ることとしての広がりがあります。
「幻の里のキクちゃん」最初の雨の描写でつまずき、おおきな絵描き、小さな絵描きという表現につまずいて、わたしには読み難いものでした。小さなことでもことばを心して使うこと、自戒をこめてそう思います。父が家を出たこと、その後の生活や思いがすべて説明文でかたづけられていることも残念です。
夢で度々会うキクちゃんに、なぜかしら懐かしさを覚える明美でありたかった。また、現実のおばあちゃんは夢の2人を孫と知っている筈で、最後のおばあちゃんのことばは寧ろ明美たちがはっとわかって言うことばであったらと思いました。父母の不和、喋らなくなった弟、祖母と夢。この揃った素材がわたしに拒否反応をおこさせたのかも知れません。もともと苦手な審査など引受けて何か言わねばならなくて、意地悪ばあさんのアラ探しの感もあって辛いのですが……。5編のうち、「なるかみ」を佳作に推しました。

幸せになれる作品にめぐり逢えることは生きる喜びです

佐野洋子
選考委員
絵本作家
●『おじさんのかさ』『100万回生きたねこ』等、独特で且、心を打つ作品群は絵本文学と呼ぶに相応しい。また、軽妙なエッセイ群も氏の豊かな感性を物語り、その本音(毒舌?)の前ではオブラートなど通用しない。東京都多摩市在住。

「けやき森の物語」
前半とても美しい信州の自然に、私もすうっとまじって、林の中に立っている様にとても幸せな気持ちになっていました。
小さなねび花1本も、どんな天才の画家も迫れない。私たちは小さな草の前に謙虚にならざるを得ません。自然を表現することは本当に難しい。作者が松本平の林を空を風を愛しているんだということが強く伝わって、私も透き通った風に吹かれている幸せを感じました。
へクソカヅラも可愛らしい。目に見えます。心臓形のつややかな小さな若葉、すんなりと高く伸びた樺の木、若葉が輝いてひるがえる様も風と共に目に見えます。
後半自然保護の問題に高々とプラカードをかかげられて、とたんに人間の勝手さが見えて来て、残念です。松本平だけを守ればいいのではない、もっと普遍的な力を持ち得る作品だったのにと残念です。素晴らしい自然を表現出来る方だと思いました。
「幻の里のキクちゃん」
色んな作品があります。観念が先に立って強引に言葉を構築している作品。気持ちがほとんどついていけない。気持より観念が大切なのでしょう。私は嫌いです。言葉と気持ちがちょうどバランスがとれている作品、優等生で少しも面白くない。
とにもかくにも気待ちがあふれ、一生懸命ことばが追いつこうとしている。幻の里のキクちゃんはそういう作品だと思いました。文章の「あらさ」が指摘されましたが、私は問題ではないと思いました。
書き込み方が足らないとの意見もありましたが、書かれていない余白が充分に感じられ、子供の無力さがひしひしと感じられるのです。キクちゃんが子供らしい懸命さで、主人公をひきとめる切なさが忘れられません。私は何度も何度もキクちゃんに会いたいのです。何より、私は小さな弟、失語症のきよしの寂しさと衰しさに、心が痛みました。
この人は自分以外の人の孤独に非常に鋭敏なのだと思います。韓国人のおばあさん、家を出て行ったお父さん、生活に懸命なお母さん、犬のゴロー、皆んな孤独です。そして、幻の里で、見事に癒されて行く。読んでいる私も癒されて行さます。
作者は、誰のものでもない独自のスタイルと世界をはっきり持っています。
私はとても幸せでした。本を読んで幸せになれる、そういう作品にめぐり逢えることは生きる喜びです。どうか完全無欠をめざさないで下さい。

作品にむかう時はいつもびっくりしたい、わくわくしたいと思っている

清水真砂子
選考委員
翻訳・評論家
●『ゲド戦記』(1~4巻)の訳者として、その翻訳の力量は周知である。
また、『子どもの本の現在』等、評論分野での評価も高く、氏独自の観点から子どもと大人、性別等の境界を取り外し新たな地平を模索している。掛川市在住

今年の最終選考に残った5点のうちで、読みだしてしばらく楽しかったのは森美秋さん(ペンネームはちょっとと思うけれど)の「けやき森の物語」だった。この方は信州松本の森が好きで好きでたまらないのだと思った。その思いが作品の前半に溢れていた。五感が活きて、みずみずしく活動している。木々や、それが育つ森の空気と深く親しんでいるのがよくわかる。ゆたかに、やわらかく世界と感応しあっているのが文章のはしばしに感じられた。そのユーモア、たわむれの心がいい。こんなふうに森を描いていったら、そのままですてきなファンタジーになる。そう思っていたのに途中から環境保護の理念が生硬なまま持ち込まれ、ストーリー展開もぎくしゃくと不自然になっていった。残念だった。
二木れい子さんの「赤い大陸」は力づくの作品とでもいおうか。ことばが粗く、強引に読み手を引っ張っていくが、読後に何も残らなかった。鼻づらをつかまえられ引きまわされるように読みながら、静かに世界を見、自分と対話できるいくつかのファンタジーの古典のことを思っていた。
選考会の朝になっても、私は残り3作の間で揺れていた。離婚しそうな親のもとにいる子どもの不安をていねいに描いている樋口さんの「幻の里のキクちゃん」には、まだ幾個所かの日本語に不安定さはあるものの、私は惹かれていた。てらいのない文章をいいと思った。日常に足をつけ、その生活感覚を大切にしていることを貴いと思った。だが、昨年に比べて文章が整ってきた分、勢いが失われたようで惜しかった。それでも内的必然につき動かされて書いていることがこちらにも伝わってきて、私は読みながら思わず姿勢を正していた。昨年のこの書き手への私自身の評価が大きくくつがえされて、うれしかった。
森谷さんの「鶴の天衣」、伊藤さんの「なるかみ」は私の中ではほとんど優劣つけがたく並んでいた。強いて佳作に推すとすれば(大賞は今年は作品を読みおえた段階で、なしと決めていた、丈長姫のキャラクターもちょっと面白く、文章に難の少ない「鶴の天衣」かなと思い、メモにもそう記して選考会に臨んだが(「なるかみ」は文章が平板で、ステレオタイプのことばに書き手が身をゆだねてしまっているところがあり、気になった)、各委員の評を聞いているうちに、「なるかみ」佳作に異存なし、というところに落着いた。読みおとしにいくつか気づかされたためである。
作品のもっぱらの読み手である私は、作品にむかう時はいつも、びっくりしたい、わくわくしたい、と思っている。たったひとつのことば、1行の文章でもいいから、うならされることを期待している。私たちは作品によっても、自分をとりまく世界を日々あらたに発見したいのだ。そんな作品との出会いを来年もまた、たのしみに待っている。

先行の素材は消化しきること

中澤 千磨夫
選考委員会幹事
北海道武蔵女子短期大学助教授
本センター評議員
●永井荷風、谷崎潤一郎などを専門とするが自らの専門にとどまらず、授業ではユニークな世界に取り組む。また道内新聞紙上での書評・時評は評価が高い。小樽市在住。

最終選考に残った5つの候補作のうち、私が推したいのは、樋口千恵子「幻の里のキクちゃん」と伊藤遊「なるかみ」だった。ただし、いずれも大賞というには、力が弱かった。
「幻の里のキクちゃん」には粗が目立つ。最たるものは、粗筋と本編に付されているタイトルが「夢の里のキクちゃん」となっていて、応募題と違うことだ。不注意もはなはだしい。文章や言葉の使い方に、神沢委員や清水委員はなじめなかったようだ。です・ます体を駆使するのは確かに難しく、こなれているとはいえない。「赤いスポーツカーになって」走るとか、「まるで柔軟仕上げをしたセーターみたいにふんわり」といった比喩はいかにも稚拙だ。しかし、読み進むにつれ、これはこれでいいのではないかと思わせてしまう不思議な魅力がこの作品にはある。へタウマというのではないが、素朴さが主人公の明美や物語の世界にシンクロしてくるのだ。
両親の離婚問題、それを機に言葉を失った弟、祖母の死といった家族の危機の中で、暗く沈んでいる明美は、夢の中でキクちゃん(実は祖母)という女の子に出会い、やがて、本来の明るく美しい自分を取り戻していく。さりげなく登場する朝鮮人の老婆も、明美の教育に大きな役割を果たす。民族差別の問題にしても、声高に主張しないところに、好感を持った。老婆の犬・五郎と弟・きよしのふれあいが、明美を導いていく。赤剥けの五郎に思い切って薬をはってやる明美。手でふれるということが、癒しの核になるという思想には無理がない。
本作を佳作に推したのは、佐野委員と私のみ。河合委員長はかなり執心しておられた様子だが。夢で癒されるということが現実にあるとしても、手法としてオリジナリティーに欠けるということか。昨年度佳作受賞の「タートル・ストーリ-」に比べてインパクトがないというのが、全体の雰囲気。仮定の話になってしまうが、昨年と入れ違っていれば2年連続受賞ということもあったか。
「なるかみ」は一番まとまっていた。タイトルもいい。舞台となっている京都のまちの細部がよく書き込まれている。「安田さんとこ(近くの肉屋)」でコロッケを買うなんていう生活感もうまい。中学受験に失敗し傷心する少年と癒そうとする家族。この少年の心の動きというか気働きがなかなか読ませる。ちょっと内省的に過ぎるかとも思えるが、実際、こんな少年もいそうだ。例えば、姉のボーイフレンド。遠藤と祖父母とにそれぞれごちそうになった京懐石の味を比較する場面は印象的。後者の方が格段に美味だったのだが、遠藤への「仁義みたいなもの」から酢味噌和えだけは残したなどというのは、心憎い。もっとも、このまま大人になったら、いやらしいかも知れぬが。
文章には、まだまだ粗さがあるが、よく意識して書いていると思う。「「ウソ~。誰もいないじゃん」」、「超キマッテいた」などという表現にしても、その使い方に時流に媚びていない抑制が感じられた。体言止めなどによって、文末に変化を持たせ、語りのリズム感を出そうとする試みも評価したい。ただし、1人称「ボク」の語り手で、心中思惟(内言)を( )に括るのは、必然性に欠け、意味がない。(一般論として、すべて駄目ということではない)
ところで、この作品には安倍晴明伝説が援用されている。第3次選考までの段階でも、いくつか目に付いた。おそらくは、夢枕獏『陰陽師』やそれを漫画化した岡野玲子の同名作品、岩崎陽子の漫画『王都妖奇譚』などの影響があるのだと思う。そのこと自体は構わない。大切なのは、先行の素材を消化しきることだ。
森谷桂子「鶴の天衣」は、「鶴女房」のパロディーとして意欲作ではあるが、長丁場を持たせるのがつらかった。森美秋「けやき森の物語」は、素直さに好感を抱いたが、エコロジーというコンセプトがいかにも甘い。ペンネームもいただけない。二木れい子「赤い大陸」は2年連続の侯補作で、筆力は申し分なし。ただ、頭で作られたような技巧だけが目立ち、高揚感が与えられなかった。

大賞と佳作の差異は僅少であるが、極めて大きい

工藤左千夫
選考委員会代表幹事
絵本・児童文学研究センター所長
●生涯教育と児童文化の接点を模索しつつ本センターを1989年に小樽で開設した。
 現在総会員数700名を越え、2年半に渡る54回の講座を行うとともに、多様な公益事業に取り組んでいる。小樽市在住。

今回は、残念なことに大賞の該当作品を見出だすまでには到らなかった。しかし、そのことの予測は、最終選考会での各委員の気配によって、察しはついていた。
選後の記者会見では、「大賞と佳作の違いは?」「今回の佳作作品が大賞まで手が届かなかった埋由は?」などの質問が殺到した。
佐野洋子さんが話していたとおり「腹の中ではわかっている。しかし言葉ではどうも……。」の返答に、各委員の一致した想いがある。
言葉として、またランクとしての大賞と佳作の差異は僅少である。しかし、読み手の実感としては、この差は極めて大きい。
それは、書き手のファンタジーの捉え方、その手法、構想、そして表現力だけの問題ではない。確かにそのような領域は、ファンタジー作品の評価をするうえにとっては不可欠である。しかし、それだけではない、と思われるところに、大賞と佳作の差は歴然と存在している。
おそらく、ストーリー性という観点から言えば佳作の作品の方が面白いかもしれぬ。しかし、その面白さが、スタンダードとして5年・10年と継続させるだけの力があるのか、となると疑問が生じてくる。
「赤い大陸」は、昨年に引き続いて応募した二木れい子さんの作品で、大賞侯補作としても連続である。昨年に比して随分と手があがった。しかし、これだけのストーリーの変化があるにもかかわらず、その面白さというものが読み手には伝わってこない。
このことは、選考会でも話題になったけれど、人の名前と牛の名前、さらに地名などの区別がつきにくい、といった読みにくさの理由だけではないだろう再考が望まれる。
「鶴の天衣」の発想は、大賞候補作のうちではもっとも奇抜に感じられた。しかし、作品全体の構想・構成には難点がありすぎた。力量のある書き手と思われるだけに残念である。次回を期待したい。
「けやき森の物語」は、評価の岐れた作品だ。文体としてはもっとも児童文学らしき作品である。にもかかわらず、いまひとつ奥行がない。ファンタジーにおいては、現実的課題と虚構世界との心的なかかわりは重要である。この作品においては、そのような整合性が極めて曖味であったこと、さらに「環境問題」ヘのテーマのすりかえによって読み手の気力を失わせたことは今後の課題といえる。(ペン・ネームは考慮すべし)
「幻の里のキクちゃん」は、昨年、佳作を受賞した樋口千重子さんの作品である。昨年に比して細部の稚拙さが大幅に減った。しかし、昨年のパワーには劣る。おそらく、本年においても佳作の水準には到達していたように思われるが、本作品のストーリーの手法は使い尽くされているし、普及の名作とよばれる作品も多い。その点、不利であったように思われる。
「なるかみ」は、大賞候補作品において、もっともまとまりのある作品であったし、物語の面白さも群を抜いていた。一抹の不安は、昨今の「ステレオタイプ」の会話形式である。児童文学においては、現在でも、直接話法(会話文)が一つの生命線であること、このことはぜひ肝に銘じていただきたい。その歴史は、グリム兄弟の民話再録から始まる(直接話法の導入)。そして、アンデルセンに到り、児童文学として定着してきたことの意味は今でも深い。

最終選考傍聴記
やっぱり、なるほど、しかし

平原一良
(財)北海道文学館事業課長
本センター評議員/第3次選考委員

ここは熱海の義兄の別荘。標高500メートル前後の外は糖雨に霞んで、晴れていれば望めるはずの太平洋、初島も見えない。ここで最終選考観戦記を書くことになるとは、ほんの数日前までは予想もしていなかったが、この窓外の雨にけぶる秋景は、なにがなし3次に残った10作を読み終えたときの心境に似ている、と思うことにする。そしてまた、晴天の下、青く光る海原の中ほどをゆったり走る網代界限の漁船が目にできれば、最終選考当日の小樽のホテルの窓から遠望できた石狩湾ののどかな光景に重ねて、少しはマシな観戦記も書けそうなものを、とうらめしく思いつつ、思い出しながら持参したノート10頁ほどに残る当日のメモに目を落としてみる。
神沢利子さんが冒頭で「大賞に推したい作はない」と述べた瞬間、「やっぱり……」と納得。神沢さんのこの発言は今日の議論の展開にたぶん大きな影響を与えるだろうな、と思う一方で、〈のっけから結論が出てしまったぞ。やれやれ〉と奇妙にホッと安心して、急に疲れが湧いてきたのだったか。ともかくも候補5作に積極的な肯定の意思を示さなかった神沢さんの姿勢は、それ自体が厳しい批評性を内に備えた実作者のありようを、少なくとも私には感動的に示してくれたから、前年に引き続いて滑り込みセーフで場に臨んだことをよかったと思えたのだった。
清水真砂子さんが、5作それぞれの小説言語の質、文章の質を問題にして、これまた厳しい評言を連ねたことはメモにしっかりと残っていて、2週間も過ぎた現在でも「なるほど、なるほど」と頷きながら反芻できる。清水さんが「けやき森の物語」と「鶴の天衣」について「文章がいいなあ」と述べ、他の3作については「荒い」「平板」「強引」と険しい見解を示していたことにも共感。
工藤左千夫、中澤千磨夫の2氏については既に3次選考で拝聴ずみゆえカット。ただし、中澤さんが「キクちゃん」評で民族差別問題のさりげない提出について指摘していたことは記憶にとどめておいてよいだろう。
佐野洋子さんの率直な評言の数々、とりわけ「なるかみ」について「歴史の解説書を読まされている」とし、「夏休みの課題をこの子(注・主人公)と一緒にやっている感じ。シンドかった」とのズバリひと言は、私の読後感にも重なって、ここでも「なるほど」と感じいったのだった。
河合隼雄さんもまた「大賞に推したい作はない」と開口一番。それぞれ佳作だが、決定的な作品は見出せないと言いつつ、それぞれについて重厚な〈ファンタジー論〉を展開。昨年私は、河合委員長を「名伯楽」と感じたままに観戦記に記したが、その思いは第2回の今回、さらに補強され、選評を拝聴することがそっくり〈ファンタジー論〉を学ぶチャンスに他ならないのだとの実感が深まった。
「なるかみ」が佳作に決定したのは、妥当な結果だろう。消去法によって、他の4作は惜しくも選外となった。やむをえないこととはいえ、しかし、このまま4作すべてが日の目をみないことになってしまうのか。そこが気になる。書き直すことによって再生しうる作品があるように私には思われる。
ファンタジー大賞に限らず、姿を消した作品ないし作家に対して手厚いフォローをできるかどうかが、たぶん文学賞なる舞台を設けた人びとに課された責務のようにも思えるが、さて、どうだろう。

これぞっという何かが今一つ欠けていた

立花峰夫
北海道情報大学助教授
本センター評議員/第3次選考委員

果たして今年の大賞は出るのか――それが最終選考傍聴に臨む私の最大の関心事であった。そう思っていたのはもちろん私だけではあるまい。3次選考に関わった私にもこの日が漫ろに待ち遠しく思われた。9月29日(日)の当日は、朝から青空の広がる秋晴れの良い天気。私は「市」になったばかりの石狩から小樽への久し振りのドライブ。日本海の青海原に遠く暑寒別の山々がくっきりと見え、いつになく、心地好い。グランドホテルに着くと、会場にはすでに河合隼雄さんがお見えで開始を待っておられた。その間、しばらくは静かな緊張感に漲った一時であった。やがて選考委員の方々が次々に揃い、10時の定刻になると、昨年同様に挨拶の後、最終選考が始まった。
選考は、それぞれの作品に対するコメントを述べるかたちで進められた。トップバッターの神沢利子さんから始まって、清水真砂子さん・工藤左千夫さん・中澤千磨夫さん・佐野洋子さん・そして委員長の河合さんと座席順に(なぜか左回りに?)一巡したところで、さて該当作品はいかにということとなった。絶好球はもちろんのこと、少しぐらいボール気味でも勢いさえあるならばホームラン間違いなしといえる好打者揃いである。作品はそれぞれまずまずの長い球であったのだが、ついに大賞は見送りとなる。やはり球のコースだけではない打者の打ち気を誘うこれぞっという何かが今1つ欠けていたようだ。
不謹慎な比喩と叱られそうだが、今回の選考プロセスの中でも最も問題になった点は、やはり「ファンタジー」とは何かということである。ホームベースにいきなりサッカーボールやゴルフボールが飛んで来ても、打者は面食らうのみである。「ファンタジーとは、現実を突き抜けたもの」「日常のもつふくらみがなければならない」という清水さんの言葉や、「子供の目をもっているか」(河合さん)「子供の心が書けているか」(神沢さん)「読後に救われるもの(癒し)があるか」(佐野さん)「書きたいことがあって書いているか」「頭で書いていないか」などの選考委員の評言に、改めてファンタジーの本質を考えさせられた。同時に作品に注がれる各選考委員の批評の目が、非常に鋭くかつ爽やかで心地好い。
この後、実質4作品の中から佳作の検討が行われ、各委員2票づつの投票の結果、伊藤遊さんの「なるかみ」が佳作と決定された。昨年佳作を受賞した樋口千重子さんの「幻の里のキクちゃん」には、厳しい結果となったように見えるが、しかしそれは今1つ大きなものへの挑戦を期待する選考委員全員の樋口さんへの配慮の結果であった。
ともかくも、3次選考ですでに作品のもつ善し悪しを味わっていたものには、この選考結果はこの日の、秋風のように爽やかで満足のいくものであった。今後ますます、素敵な作品が集まることを期待したい。(1996・10・16)


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