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ドーンDAWN16号

2008年11月発行

第14回児童文学ファンタジー大賞選後評

[選考結果]
大賞・佳作 該当作品なし
奨励賞 「あぐりこ」廣嶋 玲子
「スコールでダンス」本田 昌子

第14回児童文学ファンタジー大賞の公募は2007年11月から2008年3月31日までの期間で行われた。応募総数191作。
1次選考において15作、2次選考では6作が通過、3次選考会においては次の3作が候補作に決まり、最終選考委員にそれらの原稿を送付した。

  「あぐりこ」廣嶋 玲子
  「鬼の児」奥村 敏明
  「スコールでダンス」本田 昌子

最終選考会は斎藤惇夫(委員長)、工藤直子、藤田のぼる、小寺啓章、高楼方子、中澤千磨夫、工藤左千夫の各氏によって構成され、2008年9月7日、小樽にて開催された。
選考会は、大賞・佳作推薦の作品の有無から始まり、結果として大賞・佳作は該当作品なしということで、全選考委員の意見が一致した。
続いて、奨励賞の選考審議に入り、「あぐりこ」廣嶋玲子、「スコールでダンス」本田昌子の2作品については選考委員評決により、本年度の奨励賞が決定した。

▼受賞コメント

奨励賞「あぐりこ」 廣嶋 玲子
284枚(400字詰換算)
神奈川県在住  27歳
横浜市立大学卒

今回賞をいただいた「あぐりこ」は、狐の神様を題材にしたものです。アイディアは、秋田にあるあぐりこ神社の伝説から得ました。
きっかけは、作家仲間の方から、「廣嶋さん、伝承って好きだよね。じつは、出産の手助けをしてくれるお稲荷さんの話があるんだけど、知っている?」と、教えていただいたことでした。そのことから各地のお稲荷さんについて調べ始め、そして、あぐりこ神社に辿りついたのです。
その神社にまつわる狐の伝説を知った時、「これを題材にして書きたい!」と、強烈に思いました。その時に得た発想は本当に小さなものだったのですが、それはみるみる膨らんでいき、「あぐりこ」という物語になったのです。
そうやって夢中で書いた作品が、憧れの賞をいただけたことは、本当にうれしいことです。この作品に限っては、最初から最後まで、あぐりこ神社のお狐様が手を貸してくれたような気がしてなりません。アイディアをいただいたお礼と、賞をいただけたという報告を兼ねて、近日お礼参りに詣でようと思っています。
日本には、たくさんの精霊や神々が息づいている。ありとあらゆるものに魂が宿っているという考え方が、私は大好きです。その大好きなものに焦点をあてた作品を、これからも書き続けていきたいと思っています。
最後になりましたが、私の作品を評価してくださった選考委員の方々に、心からお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。

奨励賞 本田 昌子「スコールでダンス」
400枚(400字詰換算)
栃木県在住  49歳
山口大学卒

同郷の童謡詩人、金子みすゞさんの「私と小鳥と鈴と」の中に、「みんなちがって、みんないい」という有名な一節があります。他を受け入れ認め合うことの素晴らしさを歌ったものですが、私が約一年間滞在したマレーシアでは、少々事情が異なりました。
マレーシアは、複数の民族から成る多民族国家です。ことばも、習慣も、宗教も、価値観も違うそれぞれの民族にとって、他の民族を受け入れることは、より切実で現実的な問題でした。大切なのはその違いをどう乗り越え、どう共存していくか、実現可能な方法を具体的に模索していくことなのです。彼らは時に激しく対立しながらいくつもの壁を乗り越え、文化の面では干渉せず、政治経済の面では協力し合っていくという、現在の仕組みを作りあげていきました。
マレーシア滞在中にはまた、そこに暮らす多くの日本人との出会いもありました。地元の人々との文化交流に奮闘する人、無農薬農園の技術指導に力を注ぐ人、などなど。精力的で魅力あふれる人たちが、日本を遠く離れた場所で生き生きと輝きながら日々を送っていることに、深い感動を覚えました。とりわけジャングルに眠る無縁仏(その多くが戦前にこの地に渡り、様々な理由で日本への帰国がかなわなかった女性のお墓)を探しあて、日本人墓地に埋葬し直す活動をされていた方から、奥地に棲む精霊の話を伺った時は、わくわくと心が踊りました。この愉快なジャングルの住人たちの物語をぜひ書いてみたい、という思いは、そうして生まれてきたのです。
価値観の違う他者と向き合うこと、「その第一歩は、自分の考えをできる限り正確に表現することだ。そして、それが本当に正しく伝わっているか、常に相手の立場に立ってチェックを繰り返していく努力が必要だ」と言っていた、マレーシアの友人のことばを思い出します。それはそのまま、原稿用紙の向こう側の読者に向かって物語を書く時にも通じることばで、実際私はこの作品を書き進めながら、本当に私が頭の中で思い描いた世界は正しく表現できているのだろうか、ひとりよがりになっていないだろうかと、幾度となく立ち止っては自問することを繰り返しました。けれどもそうした問いかけを重ねれば重ねるほど、その途方もない難しさや私自身の決定的な力不足を思い知ることにもなりました。物語を創りそれを表現することは、これほどまでに深く、険しく、だからこそ心をかきたてられてやまないのだということを、改めて実感いたしました。
今回、この拙い作品に賞をいただきましたことに、心より感謝いたします。ご講評をいただけることは大変贅沢なことであり、これからの励みとして、また大切な糧として真摯に受けとめ、いっそう精進して参ります。ありがとうございました。

選後評

斎藤 惇夫 
選考委員長
児童文学者/絵本・児童文学研究センター顧問
1940年生まれ・埼玉県さいたま市在住

●長年、福音館書店の編集責任者として子どもの本の編集にたずさわる。2000年より作家活動に専念する。1970年『グリックの冒険』(岩波書店)で作家としてデビュー。著書『冒険者たち』『ガンバとカワウソの冒険』『なつかしい本の記憶』共著(ともに岩波書店)、『現在、子どもたちが求めているもの』『子どもと子どもの本に捧げた生涯』(ともにキッズメイト)。『いま、子どもたちがあぶない!』(共著、古今社)。

どうぞ新たなものを発見してください

ファンタジーという表現方法を用いて、三人の作家が一体何を発見したかったのか、それをどうやって子どもたちに見せ、子どもたちと同じ世界を経験する歓びを共有しようとしたのか、それが最後まで私にはよく分かりませんでした。
『あぐりこ』は、登場人物、とりわけ阿豪一族の描き方があまりに類型的にすぎます。そのため物語の随所で使われている魔法にしろ、呪いにしろ、一向に人の心の不思議さや捉えがたさや恐ろしさと呼応せず、つまりそれらが因って立つ深みが語られず、ひたすら便宜的に人工的に装飾的に使われているだけです。さらに、半世紀の長きにわたり囚われの身である狐霊の、帰るべき故郷「阿久利の森」が実体を持ったものとして描かれておらず、貧しい農民の一家を豊かにするために、易々と、畑に作物をあふれさせ、罠に多くの獲物をかからせ、織った布を高く売り、子どもたちには水晶や瑠璃を見つけさせ、戦いに出た男たちに大手柄をたてさせ全員無事帰還させるほどの力を持つ「阿久利の森」の狐が、何故、人の魔法など易々と破り故郷に戻れなかったのか、更にはそこがいかに歓びに満ちた場所であるのか、その肝心要のところが、さっぱり見えてきません。この森もまた、気まぐれな思いつきの域をでていません。これではまだ何も、作者が新たなものとして発見していないとしか言いようがありません。
『スコールでダンス』は、ボルネオの民間信仰の、幸福・富・長寿の霊として愛されているプタラに対する、不幸・病気をもたらす悪霊、今でも庶民がシャーマンに御祓いを願うこともあるアントゥを、肝心のボルネオの人々を抜きにして、夏休みに遊びにいった日本の女の子に、いかに問題を抱えている女の子であったにせよ、経験させてしまったことが、作品を軽く、これまた気まぐれな思いつきの物語にしてしまいました。言語も、風土も、歴史も異なる国の精霊に実際に触れる、などということは、よほど自らが抱えている問題が重く、その精霊を呼び出さずにおれない場合か、逆に島の抱えている問題が深刻で、日本の少女に救いを求めるか、どちらにせよ媒介するのは島の、多分子どもたちということになるのでしょう。その最も大切なところが抜け落ちているために、単なる夏休みの観光旅行の、あるいは閉ざされた日本人村の話に終わってしまっています。やはり、大切なものを発見する労を厭い、安易なところで作者が手を打っていると感じられます。
ただ、『あぐりこ』の作者は、物語の“物”は脆弱であるにせよ、“語り”はなかなか達者で、読者を引きつけるところがたしかにあります。『スコールでダンス』の作者は、日常の言葉で、ゆっくりと物語の核心に迫っていこうとする気配は感じさせます。あわてずにゆっくり、丹念に、しつこく、お二人が既知なるものではなく未知なる世界に、この自らの物語を通して旅立たれることを祈ります。
『鬼の児』は、いかに傀儡が死んだ我が子に似せた人形を作り上げたにしても、それが人間の世界で生き、口をきき、食べ、悩むのは無理な設定です。例えばルーマ・ゴッデンが人形を生きたものとして描く時の方法を学んでほしいと思います。

工藤 直子 
選考委員
詩人/絵本・児童文学研究センター顧問
1935年生まれ・静岡県伊東市在住

詩・童話を中心にエッセイ・翻訳の分野でも活躍中。著書『てつがくのライオン』『こどものころにみた空は』(ともに理論社)、『のはらうた』Ⅰ~Ⅴ、『版画 のはらうた』Ⅰ~Ⅳ、『子どもがつくるのはらうた』①②(ともに童話屋)、『リュックのりゅう坊』全3巻(文溪堂)などがある。『のはらうた』は2008年7月に全5巻で完結。

細部を大切に

今回は三編が最終選考に残りました。読了順に感想を記したいと思います。
●廣嶋玲子作「あぐりこ」=大豪族、阿豪一族のもとに、人買いの手で売られてきた千代がやってくるところから物語は始まります。彼女は、少女の姿をした狐霊「あぐりこ」の世話をするために買われたのです。
その狐霊「あぐりこ」と千代との交流から生まれた友情と逃走の冒険が描かれているのですが、読みはじめた最初は、物語の世界の構図が見えにくく、物語の世界に入っていくのに難渋しました。登場人物の性格や気質、物語世界の建物や住まい、風景などが捉えにくいのです。
後半、二人が脱出する情景になると、緊迫感もあり、引きこまれました。あぐりこの故郷風景や、そこに棲む狐一族のことなど、むしろ、そちらに力点をおいたほうがいいのでは、とも思いましたが。
冗長に流れず物語世界をいきいきと浮き彫りにするためには、「布石」となる文が大切だと思います。それを見つけ出し磨きあげ的確に文中に配置すれば、読者は知らぬ間に物語の世界に引きこまれることでしょう。細部まで丁寧に書き上げるのは、予想以上のエネルギーと筆力がいるものですが、どうかその努力を忘れずに、くり返し添削し続けてください。
●奥村敏明作「鬼の児」=牛飼い少年忍人と、天才人形遣いのえびら丸が死んだ娘を蘇らせようと、自身が鬼と化して創りあげた人形的な娘「あげは」との、いわば恋物語ですね。
大江山の鬼伝説とピノキオ的な感覚が混じりあった、不思議な味わいの物語になりましたが、これも残念ながら、登場人物が、ゆらゆらと不安定で、読者の中に鮮やかな像を結ぶところまでは行きませんでした。
忍人の「牛飼い」としての日常が、もっとリアルに描かれていたら、あるいは、あげはの、たどたどしい、いかにも「人形的」な言葉づかいが、もっと愛すべき特徴になっていたら、そしてまた、えびら丸が鬼と化すまでの葛藤や、人形作りにそそぐ狂人的な熱意が描かれていたら・・・・・・と残念です。
忍人とあげはの初々しい恋物語は好感がもてます。丁寧に描きこんでいけば、この物語のなかで、きっと可憐な花のような役割をはたすことと思います。
●本田昌子作「スコールでダンス」=小学生なつきと中学生亜希子が、父親の赴任先ボルネオで体験した一夏の出来事、そのなかで遭遇した、精霊「アントゥ」にまつわる話や出来事が物語られています。
子どもたちの夏休みの出来事に連動したかのような、淡々とした平明な文体で、そのまま「夏休み日記」ふうでもありますね。この味を良しとして味わうか、少々退屈だと感じるかは、読み手の好みで分かれるところだと思います。淡々とした文体の良さはありますが、もう少しメリハリがあるといいなと思いました。
また、子どもたちの行動やエピソードのほうに重点がかかり(主人公のなつきは、生き生きしていて魅力的ですが)「アントゥ」のイメージが、いまひとつ浮き上がってきません。読み手は「異界への入り口」を探しあぐねて、物語のまわりでウロウロするのではないかしら。・・・・・・わたしは「アントゥ」にもっと接近したいと思いました。賞のテーマが「ファンタジー」ですから、物語の中心に「アントゥ」を持ってきて欲しかったな。
奥村さんは、前回「観音行」で佳作、廣嶋さん、本田さんはすでに何作か書かれておられます。どうぞこれからも、今回の作品をバネにして、さらに選者や読者をわくわくさせる創作を!

藤田 のぼる 
選考委員
児童文学評論家/(社)日本児童文学者協会事務局長
1950年生まれ・埼玉県坂戸市在住

●児童文学の評論と創作の両面で活躍。評論に『児童文学への3つの質問』(てらいんく)、創作に『雪咲く村へ』『山本先生ゆうびんです』(ともに岩崎書店)、『麦畑になれなかった屋根たち』(童心社)、『錨を上げて』(文溪堂)などがある。

作品の奥行きということ あるいは方法意識                     

この賞の選考に加わってもう5回目になる身で言うのも恥ずかしいことながら、去年までの選考委員会での自分自身を振り返ると、なにかまちがったことを言ってはいけないという気持ちが先に立って、作品への思いを率直に述べるということに欠けていたような気がしたのでした。そんなわけで、今年のテーマは「主張」。(去年までも充分主張していたよというツッコミが入りそうですが。)それはともかく、今年の選考会は評価が分かれ、最後は投票で賞が決まるというスリリングな展開で、実のある論議ができたと思います。
以下、作品を読んだ順に感想を記します。「あぐりこ」は、一気に読ませる作品でした。この作品の魅力は、ストーリーの上で提示されているゴールが明確で、そのゴールに向かうハラハラドキドキのコースを、読者が共に旅することができるところにあると思います。反面、ストーリーがいかにも単線で、それぞれの登場人物の抱える「物語」がそこに重なってさまざまな相貌をみせる、というふうに膨らんできません。言い換えれば、作品の奥行きが不足です。例えば、敵役である阿豪の一族にしても、当主と二人の息子たちの間では、世代や立場によって、あぐりこに対する想いが微妙に違うはずであり、そのあたりをもっと書き分けてほしかったと思います。
「鬼の児」は、題材としては魅力を感じたものの、文章表現のところでひっかかってしまいました。こうした時代物の場合、古語的なことばと現代的な表現とを重ねながら語っていくわけですが、そのミックスのありようが落ち着かず、古語的なことばが作品の中で浮いてしまっているように感じました。また、この作品は、忍人、あげは、えびら丸それぞれの物語が絡んでいく展開なわけですが、そのことによって作品の焦点がうまく結べない感じで、主人公の忍人を描ききることに重点をおいても良かったのではないでしょうか。
「スコールでダンス」は、日本で行きづまった少女が南の島で癒されていくという、いかにものパターンに陥りそうな舞台装置ですが、そうならなかった大きな要因は、小五の妹と中一の姉という設定が絶妙だったことにあると思います。つまり、子どものことばから大人のことばにほぼ脱皮した(そのことに苦しんでもいる)姉と、子どものことばから卒業することに不安を感じている妹。つまり僕はこの作品を、心とことばの物語として読んだのですが、それを象徴するのが一方で「英語」であり、一方で「アントゥ」だったと思います。しかし、残念ながら、超自然的な存在であるアントゥの使われ方がぎこちなくて、ファンタジーとして中途半端な作品になってしまいました。こうした〈現実〉と〈幻想〉が交錯する作品は、方法意識をよりはっきりさせた上での“計算”が求められるのではないでしょうか。

小寺 啓章
選考委員
兵庫県子どもの図書館研究会代表/兵庫県太子町立図書館 前館長
1946年生まれ・兵庫県太子町在住

●兵庫県西部の市・町の公共図書館に35年勤め、太子町立図書館長として24年勤務。2007年3月退職。著作・執筆に日本経済新聞夕刊「本の国から」(1999.4~2001.3)、『図書館雑誌』コラム「窓」(2005年1・5・9月号)。「子どもと絵本と図書館と(1-12)」(『こどものとも年中版』1999.4~2000.3)、「本となかよし①~③」(『おおきなポケット』2007.4~6)ともに福音館書店、「資料でみる 石井桃子の世界」(執筆・編集)などがある。 

ファンタジーこそ、子どもたちの想像力を羽ばたかせてくれるもの

三十五年間勤めた、いなか町の公共図書館でも、実に多くの子どもたちが英米の作品を中心にファンタジーを楽しんできた。返却の際、「この本、どきどきしたわ!」と告げる子どもたちの姿に、ファンタジーを受容する裾野の広がりを実感した。子どもは、読んでいる物語がファンタジーだと意識はしない。ホビットであれヒキガエルであれプークマであれ、物語の主人公に自分を重ね、主人公の体験を自分の体験とし、主人公の喜びを自分の喜びとした。それが日常世界とは異なる世界であってもである。
こんな子どもたちに新鮮なファンタジーを渡したい。本賞が歴史を刻み、新しい風が吹き始めたという昨年の選後評から期待があった。
三作品が、時間によってどう変化するかみたくて、短いが一カ月あけて、二度読んでみた。「ファンタジーということばは、ギリシア語からきていて、文字通り訳すと、目に見えるようにすること ※1」である。はたして読み手の目に何が見え、何が残ったか。
『スコールでダンス』では、見えるというより、優衣香に仲間はずれにされる主人公の葛藤の現実感のみが強く残った。確かに、ボルネオを舞台に、海外子女の暮らしや、いじめの克服というテーマは関心を呼ぶ。この設定に作者は島に伝わるジャングルの精霊アントゥを登場させる。しかし、精霊出現の必然やいじめの解決には読者の納得が得られるプロットが必要である。表現もテレビドラマのシナリオを読むが如しの紋切り型、姉妹の対話に大人の視点が散見され読み手の気持が離れる。タイトルは興味をひくが、大詰めのダンス(盆踊りのことだが)は絵にしがたい。もっと削ることで展開に緊張感が生まれるのではないだろうか。
『あぐりこ』は、日本の中世と思われる時代を背景に、豪族の屋敷からの脱出と逃亡の物語。通読直後、物語はことばとして残るが、一カ月たつと全くの無。目に見えてこない物語だった。タイトルでもある狐霊のイメージが明確でなく、冥界や妖術など実体のないことばと、劇画調の表現に読み手がついていけないからだろう。しかし、子どもは新鮮さを評価する。勢いと若々しさが感じられるので、安易なことばの多用を避け、ていねいな表現に努めることが望まれる。
『鬼の児』も脱出の物語。都から大江山へと向かう旅である。ストーリーの展開に大いに期待したが、構成の骨組みが露わになった。主人公のあげはと忍人だけでなく、脇の人物までも「からくり人形」に見え、生命が感じられない。文章の生硬さは、検非違使追捕尉、放免、家司などの用語や密教用語、さらに汗衫、小袖、水干など『古語辞典』巻末にみる服飾用語の頻出による。衣装の名称より、当時の人が、どんなものをどういう風に着て、どう感じたか、どう見えたか、そこをどう描くか、その課程にこそ文学が表れる。過去の受賞歴から賞の対象外となったが、三作の中では力があった。
『あぐりこ』と『鬼の児』は、古代や中世を舞台とし、注連縄(しめなわ)や結界、冥界などの言葉を用いて、現実と境界を隔てる世界を描いた。作者にとって、呪術や妖術は便利なだけに物語の展開が安易になる。俗信の世界は、誤ると不健全な印象を与える。子どもを対象とした文学は、健康であることが肝心。
三作は、ほぼ幸せな結末を迎えはしたが、無理にまとめられた印象が強い。テーマが最後に露わになったせいでもある。どれも、あと味の悪さが残ったのは残念。幸せがうまく描けない閉塞感と現代の病理のごときものを感じたのは私一人ではあるまい。
ファンタジーは、「想像力。現実にあらわれていないことを形にかえる働き、力、またはその結果 ※1」。文学になりうるかどうか、さらに「言語の絶えまなき再創造(つくりなおし) ※2」に挑んでほしい。ファンタジーこそ、子どもたちの想像力を羽ばたかせてくれるもの。そうした物語が待たれる。

※1 『児童文学論』 リリアン・H・スミス著 石井桃子・瀬田貞二・渡辺茂男共訳 岩波書店 1964(p.273)
※2 『詩をよむ若き人々のために』 C・D・ルーイス著 深瀬基寛訳 ちくま文庫 1994(p.20‐21)

高楼 方子
選考委員
児童文学作家
1955年生まれ・北海道札幌市在住

●著書に『時計坂の家』(リブリオ出版)、『緑の模様画』(福音館書店)、『十一月の扉』(リブリオ出版/新潮文庫)で2001年産経児童出版文化賞受賞、『いたずらおばあさん』(フレーベル館)と『へんてこもりにいこうよ』(偕成社)で1996年路傍の石幼少年文学賞受賞、『おともださにナリマ小』(フレーベル館)で2006年産経児童出版文化賞、『わたしたちの帽子』(フレーベル館)で2006年赤い鳥文学賞・小学館出版文化賞受賞などがある。

魅力的な空気が漂う面白い物語があったら、それを推すだけ

今年からこの賞の選考に関わることになりました。でも白状すれば、「ファンタジーとは何か」ということにどうも関心がない、というか「ファンタジー」という言葉そのものが、私には相変わらず他人の用語のままなのです。はたしてこういう者が委員になってよいのでしょうか――という懸念を抱きつつ、とにかく私としては、非現実的要素によって作品が支えられており、魅力的な空気が漂う面白い物語があったら、それを推すだけ、という気持ちで三作を熱意をもって読みました。
『鬼の児』には、読み始めるなり引き込まれました。生き生きしていて奥行きのある文章は、状況を的確に伝えると同時に、読む者を少年忍人の心情に寄り添わせずにいません。囚われの美しい鬼の少女に恋してしまうところから始まる、緊張感ある物語の運びに心底感心し、半分読む頃には、これはもう大賞だわとウキウキしました。それなのに、最後に行くに従い、膨らんだ希望がしゅるしゅると縮みました。――異才に恵まれながら憤怒と絶望の果てに鬼になったというほどの男が、全身全霊で造り上げた娘を司直の手に置き去りにしたまま救い出そうともせず山奥に籠ってしまう。この理不尽さからすべての物語が始まるのに、その行動理由がついに明かされないのは、あんまりではないでしょうか。助けにこられないのか、それとも捨てたのか、だとしたらなぜ? という謎に導かれ、忍人と少女と共に丹波まで来てみれば、見たら惜しくなったから娘を返せと騒ぐ鬼。ここに、苦悩を経た人物像を見ることはできません。これほど筆力のある方が、あやふやな設定のまま物語を構築しようとした訳が、どうしてもわかりません。
その点『あぐりこ』は、一応かっちりとした骨組みに基づいて物語づくりがされており、しかもスピード感のある文章で、ぐいぐい一気に最後まで読ませる力のある作品でした。が、です。仮にも文学作品であろうとするためには、表面を滑走するだけではなく、もう少し落ち着いて深いところへ降りていけないものだろうか、と思わずにいられませんでした。とはいえ、子どもの頃の読書を思い出してみると、相当荒いものでも、行間を自分で補いながら十分に楽しんでいたわけだから、これくらい書けていればいいのかも、という気もしたし、少なくとも、よくできたテレビアニメや劇画のように楽しめる作品ではあると思いました。そしてこれが作者の希求する世界ならば、もはや人がとやかく言うことではないのかもしれません。(だからこそ、この方はもう、プロとしてお仕事をされているわけですし)けれども、この文学賞は(私の考えですが)、もう少し違う方向――言葉にしにくいもやもやしたものを何とか描き出そう、何とかそれに形を与えようともがく、文章による真摯な試みに価値をおいているのではないでしょうか。
『スコールでダンス』は、日常的な瑣事と心の襞を坦々と写しとっていく中で、深いところまで降りていこうとした作品だと思いました。更に、土地の精霊を主人公の前に出現させ、だいじなことを悟らせることで、作品世界を深めようとした意欲も感じました。しかし、日常を坦々と写しとるからには、文章に締まりや冴えがなければ、どうしても退屈な作品に堕してしまいます。この作品も、そこに問題があると思います。また内容の点でも、首を傾けざるを得ない箇所が散見され、そのたびに違和感を覚えました。細部の積み重ねによって質が決定されていくこのような作品の場合は、ちょっとした描写一つにも気を抜いてはならないのに残念です。さらに、精霊が示すだいじなことの意味がどうも不明瞭というのも気になりました。というわけで、がんばって書いてあるけれども、魅力ある物語となるまで、あともう二三、四五六歩、という印象を持ちました。
 ――なあんて、自分のことは棚にあげ、気楽な評論家気分で言いたいことを言いました。奥村さん、廣嶋さん、本田さん、どうぞお許しください――

中澤千磨夫
選考委員
北海道武藏女子短期大学教授/絵本・児童文学研究センター評議員
1952年生まれ・北海道小樽市在住

日本近代文学から映像論と守備範囲は広い。著書に『荷風と踊る』(三一書房)、『小津安二郎・生きる哀しみ』(PHP新書)など。「小津安二郎作品地名・人名事典」作成のため、日本と東アジアを飛びまわる。現在、『日刊ゲンダイ』(北海道版・水曜日発売木曜日号)に
「さっぽろ路地裏探検隊がゆく」を分担執筆。

色彩と汗と匂いがむんむんと入り混じり神話的世界に触れていく。

奥村敏明さんの「鬼の児」。現代風会話のテンポがよく、読ませます。難しい言葉も気になりませんでした。これらに別注を付けて作品に組み込んでしまえば、ひとつのスタイルとなります。とはいえ、忍人があげはを助けようという動機が弱い。異性への興味に加え、鬼の児の正体を知りたいという〈知〉の発動と、とりあえずはいってよいかもしれません。しかし、それが忍人自身の出自、アイデンティティーの探求に結びついていきません。たとえば、探究のはてに目を突くところまで自らを追い込んでしまうオイディプース的な〈知〉のありかたには遠く及びません。助ける人・忍人/助けられる人・あげはという関係が固定的なのが惜しい。あげはの存在により忍人が深まっていくというダイナミズムが必要。奥村さんは既に佳作を受賞しているのですから、越えなければならないハードルは高くなります。底力とセンスを信じて再挑戦して下さい。
廣嶋玲子さんの「あぐりこ」。阿久利森の狐霊を、読む前はuglyな子なのかななんて失礼な予想をしました。「鬼の児」の現代風会話に対し、いかにも時代劇的紋切り型の口調が、私にはなじめませんでした。書き方はとても素直で、あぐりこに心を寄せ、川にまで飛びこむような千代の心根には惹かれます。もっと伸びていきそうな予感を抱かせる書き手ですね。少しだけこざかしくなって、物事をはすかいに眺めるよう意識してみると化けるのかも。
本田昌子さんの「スコールでダンス」。タイトルの「で」がいい。フランス語で「squall de danse」といってみたい。スコールの中で盆ダンスをという意外性。さらに、ダンスのスコールとひねってみたい。スコールには突風、大雨のほかに騒動や危険という意味もあり、ダンスもまた騒動や喧嘩を表します。つまり、騒ぎの突風とも騒動のスコールという畳語にも読めるわけです。「フウアゥン、フウアゥン」という不思議なオノマトペが出てきます。オノマトペを上手に使うのは難しく、型どおりのものばかりでは読者を惹きつけられません。凝りすぎもまたいけません。「フウアゥン、フウアゥン」に捕まれてしまえば、「リリリン、ボーッボーッ。コッコッコッ、トクトクトク、ジジー、ジジー」という森の音や「ドタドタ」、「パタパタパタ」、「バサバサバサッ」といった定型的な音も生きてきます。
なつきをボルネオに連れ出すきっかけが、シチューに入れたココナッツミルクの不思議な味覚。そもそもスコールにしろダンスにしろ、皮膚感覚をはじめとする五感の融合横断体験です。さらには、アントゥ・グラシに代表されるような気配に物語は支配されます。「白地に赤いハイビスカスの花が咲いたバティックのゆかた」で踊る姉の亜希子にスコールがたたきつけます。色彩と汗と匂いがむんむんと入り混じり神話的世界に触れるこの場面で物語は閉じられるべきだったでしょう。
何よりいいのは、この物語にはやさしい言葉で哲学するという気味があることです。なつきと亜希子はショッピングセンターのフードコートでココナッツジュースを飲みます。ココナッツミルクしか知らなかったふたりは予想していた味と違い驚きます。父は分かっていながら黙って買ってくれたのですが、同じココナッツとはいっても、ココナッツミルクとココナッツジュースはまるで違う。予想と現実、あるいは言葉と実体が必ずしも一致せず、時には裏切られるという哲学なのですね。なつきは亜希子の姿が自分に対する時と学校では大きく異なるのではないかと気づきます。人は時と場所が変われば、違った相貌(ペルソナ)を見せるということですね。

工藤 左千夫
選考副委員長
絵本・児童文学研究センター理事長
1951年生まれ・北海道小樽市在住

●生涯教育と児童文化の接点を模索するために絵本・児童文学研究センターを開設(平成元年)。平成14年、特定非営利活動法人となる。現在、会員数は全国で1300名を超え、2年半にわたる基礎講座(全54回)を開講するとともに多様な公益事業に取り組んでいる。
著書『新版ファンタジー文学の世界へ』『すてきな絵本にであえたら』『本とすてきにであえたら』(成文社)、『大人への児童文化の招待』(エイデル研究所 河合隼雄共著)、『学ぶ力』『笑いの力』(岩波書店 河合隼雄他共著)。 

「今年こそは」の意気込みはあったのだが・・・・・・

第十四回児童文学ファンタジー大賞、最終選考会の風景を、多少とも述べてみたい。
理由は二つある。ひとつは第7回から選考にご協力いただいた、詩人の工藤直子さんが、今回の選考をもって、本賞の選考委員を勇退されたことである。工藤さん、長い間、本当にありがとうございました(なお、工藤直子さんは今後とも絵本・児童文学研究センターの顧問としてご協力いただけることになっています)。
ふたつめは選考委員長の斎藤惇夫さんの推薦によって、二人の選考委員が入られたことである。一人は小寺啓章さん、もう一人は高楼方子さん。
小寺さんは兵庫県の太子町立図書館長を長年にわたって勤められ、図書館というもののレベルを蔵書内容のみならず、スタッフの育成も含めて創り上げてきた方である。また、英米児童文学への造詣も深い。高楼さんは、ご承知の通り作家として著名な方である。現在の創作児童文学の世界において、若手(?)では常に三本の指に数えられる方である。
 工藤直子さんの最後の選考、そして新たに迎えた二人の委員の参加した最終選考会が、9月7日、午前10時より小樽グランドホテルの一室にて行われた。

予想通りと言えばそれまでだが、やはり大賞及び佳作の水準にかすりもしなかったこと、とても残念至極。本年は絵本・児童文学研究センターの創立20周年記念の年次であり、「今年こそは」の意気込みはあったのだが……。三次選考会でおよその目処が観えてしまった。しかし、選考会は多様な意見が出ることは当然にしても、作品の評価が明確に分かれることは、第1回を除いて経験がない。これも各委員の文学観や人生観、総じて好みというものが異なるからだろう。作品名は伏すが、斎藤選考委員長にお願いして奨励賞受賞の可否について評決をとっていただいた。これも第1回以来のことである。
さて、作品についてだが、各委員の選評でその内容はでつくしているので、紙面の関係もあり、多少、述べてみたい。
「スコールでダンス」
今回の三作のなかで、わたしがもっとも苦手とする作品。創作において、ディテールの重要性は多言を要しない。文学とは文字によって構築していく世界である以上、巧みなディテールの積み重ねによって、その世界ができあがる。しかし、とにかくそれがくどすぎる。また、ファンタジー的手法で精霊を使うことに異論はないが、古今の名作は、人間のより深い心、人類共通の深みまで行こうとするのである。しかし、本作品は個人的領域でストップしている。なんとなく、少女漫画を読まされている気分が、最後まで抜けなかった。
「あぐりこ」
作者はかつてこの賞の最終選考に残った方である。そのときの作品名は忘れたのだが、選考会では、この手(凄惨な暴力シーン)を本賞の性格上、選考の対象に上げるか否かの議論がなされたことを憶えている。その時の作品に比して云々はまずいのだが、長年、選考に携わっている者としては、どうしても気にかかる。内容については各選考委員と重複するので、避けるが、前回に比して、文体、物語性は伸びている。しかし、どうしても大団円が甘い。ここで少しの工夫、いやここで全精力を使うほどの迫力が欲しかった。
「鬼の児」
作者の奥村さんは、かつて奨励賞と佳作を受賞している。確かに手練(てだれ)であることはまちがいない。本作品についての感想は高楼さんとほとんど同じなのでそちらを参考にして欲しい。ただ、奨励賞及び佳作と受賞してきているので、今回は大賞を狙いに来た! との気負いを感じたのは、わたしだけであろうか。


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