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ドーンDAWN24号

選考結果

大 賞 該当作品なし
佳 作 該当作品なし         
奨励賞 「オカリナの島」 南野 たかし
    「おじじの森」  澤井 美穂  

第22回児童文学ファンタジー大賞の公募は2015年11月から2016年3月31日までの期間で行われた。
応募総数186作。
一次選考において13作、二次選考では6作が通過。三次選考会においては次の3作が候補作に決まり、最終選考委員にそれらの原稿を送付した。

 「オカリナの島」  南野 たかし
 「おじじの森」   澤井 美穂
 「星の降る夏」    古市 卓也  

最終選考会は斎藤惇夫(委員長)、藤田のぼる、松本なお子、中澤千磨夫、工藤左千夫の各氏によって構成され、2016年9月11日、小樽にて開催された。
選考会は、大賞推薦の有無から始まり、結果として大賞は該当作品なしということで、全選考委員の意見が一致した。
続いて、佳作・奨励賞の選考審議に入り結果として、佳作は該当作品なし、「オカリナの島」(南野たかし)、「おじじの森」(澤井美穂)が本年度の奨励賞に決定した。

受賞者のことば

南野 たかし
(みなみの たかし)

京都府在住 28歳
奨励賞「オカリナの島」
224枚(400字詰換算)

この度は、奨励賞を頂きありがとうございます。何だか夢を見ているような気分です。
私がこの作品の舞台となっている奄美群島の沖永良部島(おきのえらぶじま)を訪れたのは、二十三歳大学生の時でした。島のジャガイモ農家さんに一ヶ月住み込み種イモ植え付けのアルバイトをしたのですが、その時知ったのが「世の主伝説」でした。
世の主は沖永良部島の昔の統治者で、沖縄島では北山、中山、南山の3つの王国が覇を競った「琉球三山時代」を生きた人です。当時沖永良部島は北山王国の領土であり、北山王から島の統治を任された世の主は善政を行い、島民からよく慕われたと言います。しかし北山王国が中山王国に滅ぼされてから、状況は急変。気弱になった世の主は中山の派遣した和睦の船団を島を攻め取りに来た軍船だと思い込み、島を守るために早まった最期を遂げたのです。
当時は残念な話というくらいにしか思っていなかったのですが、大学を卒業して新入社員時代のある日突然、伝説をテーマにした作品を書くことを思いつきました。島を訪れてから約3年後のことです。プロットやストーリーが、どこかから飛来したような感じでした。
今年二〇一六年は、世の主が自害したとされる一四一六年から数えてちょうど六百年に当たる年。沖永良部島では「世の主没後六百年祭」など、イベントがいくつも企画されているそうです(世の主は今でも島で愛されているのです)。そんな不思議な巡り合わせもあり、この物語は実は沖永良部島が私を利用して書いた作品なのではないかと本気で思っています。
 美しい海や鍾乳洞など、風光明媚な沖永良部島を訪れたことをきっかけに離島の魅力に目覚め、全国の島々を旅して回るようになり、現在までに百島近く巡りました。
離島は一つ一つがオリジナリティに満ちており、多様性に富んでいます。本土とは別の「もう一つの日本」です。今後は島を舞台にした「離島ファンタジー」を作っていこうと思っています。次作は沖縄県の波照間島に伝わる伝説をテーマにした作品を構想しています。
最後にこの作品が生まれる過程では、快く取材に協力して下さった方々など、実に多くの人に世話になりました。この場を借りて御礼申し上げます。

澤井 美穂
(さわい みほ)

北海道在住 52歳
奨励賞「おじじの森」
281枚(400字詰換算)

このたび児童文学ファンタジー大賞の奨励賞をいただき、ふわふわとした気分で毎日を過ごしています。以前別の文学賞をいただいた時は、翌日に父が亡くなり、目の前に現れた二つの非日常とうまく折り合いがつけられずにいたことを覚えています。
道東の置戸町という小さな町で子供時代を過ごしました。道に蛇が出てきたり、夜空を見上げているとキタキツネがすり寄ってくるような町でした。図書館活動が盛んで、次に何を読もうかワクワクしながら町立図書館に通いました。周囲を山に囲まれて、見上げるといつもどこまでも澄んだ青空がありました。町立図書館は立派になり、馬が丸太を運んでいた光景は過去のものとなっても、町を取り囲む針葉樹の緑と空の青さは変わりません。すり鉢の底から見上げる空。吸い込まれそうなほど濃い青。私にとっての空はあの小さな町で見上げた空なのです。その空のもと過ごした日々の記憶をたどりながら一つの物語にしました。昔はよかったというノスタルジアに流れないように気を配りながら。
長い時間をかけて自分の内面に深く潜り込んで、形になりそうで形にならないものをことばでつかまえようとあがく。そうしているうちにだんだんと登場人物たちが息をし始め、動いていく。いつも書き始める時には最後まで書けるだろうかと心配です。時間には限りがありますし、自分の限界という問題もあります。それでもなんとかこの物語は完成しました。
出来上がった瞬間に物語は書き手のもとを離れて、読者のものになります。この物語をどのように読むかは読み手の自由です。だからこれを書くのは反則かもしれません。でも私はこの物語で人から人へと引き継がれていく何かを、その大切さを描いてみたいと思いました。それが伝わるようにと必死に何度も書き直しました。あの青空を思い出しながら、小さな町で生涯を終え何かを私に引き継いで空気に戻っていった父のことを考えながら。
幸運なことに奨励賞をいただき、本当に嬉しく思っています。受賞のお知らせをいただいた時は感激して、「はい」と「ありがとうございます」を繰り返すことしかできませんでしたが、選考委員長の斎藤惇夫先生、副委員長の工藤左千夫先生の声の温かさは忘れられません。とても励まされました。じぶんという小さな器と向き合いながらこれからも書き続けていきたい、それが今の私の一番の願いです。
最後になりましたが、審査員の先生方、審査に関わった多くの方々にこの場を借りてお礼申し上げます。本当にありがとうございました。

斎藤 惇夫
(さいとう あつお)

選考委員長
児童文学作家/絵本・児童文学研究センター顧問
1940年生まれ・埼玉県さいたま市在住

●長年、福音館書店の編集責任者として子どもの本の編集にたずさわる。1970年、デビュー作『グリックの冒険』で日本児童文学者協会新人賞。1979年『冒険者たち』で国際アンデルセン賞優良作品、1983年『ガンバとカワウソの冒険』(以上全て岩波書店)で野間児童文芸賞を受賞。2000年に福音館書店を退社し、創作活動に専念する。2010年『哲夫の春休み』(岩波書店)を発表。昨年、小~高校時代を過ごした新潟県長岡市から、子どもへの読み聞かせや選書の大切さを伝え続けた活動が評価され、第19回「米百俵賞」を受賞。来春、待望の新作『河童のゆうたの冒険』を刊行予定。

あなたの中の子どもは あなたの物語を愉しんでくれますか?

 子どもに向かって書かれた物語を読む時、私は、十歳の少年になって読みます。意識してそうするわけではなく、自然にそうなってしまうのです。おそらく十歳の時に読んだ数々の物語がそう仕向けている、本を読む核になるような経験を十歳でしたからなのだろうと思っています。驚きに満ちた世界が、宇宙が、人間が、鮮やかに目に見えるように描かれていて、その現場に私を連れて行ってくれないとだめなのです。そこで驚かせてくれないとだめなのです。一方、自分が物語を書くときは、その十歳を開放できるかどうかが勝負になるのですが、大概は、十歳にふんとそっぽを向かれ、書くことを断念します。

星の降る夏
 この物語はファンタジーではありません。時間と空間を超えた不思議なことがなにも起こっていないのです。もう一度「空間と時間の束縛から自由である恣意性と、目に見えるように鮮やかにとらえられた合理性」(ハーバード・リードの『散文論』)などを思い出していただきたいのですが、その前に、私の十歳は、この物語を読めませんでした。状況説明と、内面描写がやたらと多く、おまけに主人公たちの、嘘と真に付き合うには長すぎて退屈しきったのです。言うこととすることでおさめなくてはならない、という子どもの本の鉄則を思い出して下さい。読者の子どもたちが、主人公の二人の子どもたちの内面をたどる旅にでるためには、その鉄則からそれてはならないのです。思い切って文章を削り短編に仕上げたらどうだったのでしょう。随所にみられる輝きは、短編だったならば、子どもたちを作家の内面への旅に誘ううながしになるかもしれません。

オカリナの島
 主人公美結の、ユタに対する嫌悪感や怖れ、そしてかつて島を治めていた世の主への思いの希薄さ(それは作者のユタと世の主への思いの浅さとしか思いようがないのですが)、それが伝わってこないために、一体なぜこの作者がこの物語を書かなくてはならなかったのかが不明です。ストーリーの展開は、そして島の描写は、形としては、次第に物語を盛り上げていっており、最後まで読ませるのですが、肝心の核の部分があいまいなために、タイム・ファンタジーになりそこねた作品と思います。現実の世界で、美結が世の主に恋するほどまでに惹かれていたら、また、今という時代に、美結がユタを嫌う理由が明らかにされていたら、つまり、作者の島への熱い思いの底にあるものを丁寧に追いながら書いたら、この物語は七百年前の島の歴史を甦らせ、今に、十歳の心に十分に通じる心躍る物語になっていたのではないかと思います。残念です。

おじじの森
ファンタジーという、サブ・クリエイトされた世界の中で一貫性・合理性を持つ物語というよりは、不思議と恐怖が生な形で語られるゴースト・ストーリー(怪奇小説)に近いと思います。しかし、そのゴーストのおじじがあまりにはっきりと見えていて、しかも主人公だけでなく、友人たちにも見える人として語られているために、陰影の(驚きの)薄い作品になってしまいました。せめて、昔おじじが書いたという『町の昔ばなし』の内容が丹念に説明され、その内容が、次第におじじを浮き上がらせ、同時に子どもたちに自然・山体験、そしておじじに関わった人間体験をさせるという構造になっているならば、もう少し子どもたちのゴースト体験を自然に描けたはずと思います。それに、主人公と母親、そして祖母との関係も含め、どうもあまりに人間関係が安易に作られすぎています。物語の完成を急くあまり、ストーリーが先行し、プロットが甘いというべきなのかもしれません。作者は、筆力のあるストーリーテラーと思います。ゴースト・ストーリーの怖さや不思議さ、凄さを子どもたちに十分に伝えられるところまで、手を加えていただきたいと思いました。

藤田 のぼる
(ふじた のぼる)

選考委員
児童文学評論家/日本児童文学者協会副理事長
1950年生まれ・埼玉県坂戸市在住

●小学校教諭を経て、日本児童文学者協会事務局に勤務。児童文学の評論と創作の両面で活躍しているほか、東洋大学などで非常勤講師を務めている。2013年に発表した創作童話『みんなの家出』(福音館書店)で第61回産経児童出版文化賞フジテレビ賞を受賞。
主な著書に『児童文学への3つの質問』、『麦畑になれなかった屋根たち』(ともにてらいんく)、『山本先生ゆうびんです』(岩崎書店)などがある。

読者が出会いたいものを

選考の度に思うことは、「児童文学ファンタジー大賞」ということの難しさです。もちろん「児童文学」でなければならない、そしてファンタジーでなければならない。この二つの枠というか枷を受けとめて、あるいは引き受けて、作品を生み出すことの、なんと大変なことか。でも、だからこそ書ける、だからこそ書こうと思う、ということもありますね。読む側も、そうした作者の覚悟のようなものとどう向き合えるか、言わずもがなではありますが、選考する方も試されます。
さて、三つの候補作品について、最初に読んだ順に感想を記します。「おじじの森」は、祖母と母と暮らす主人公の圭が、横糸としては学校の図書室での出会いを通して、縦糸としては正体不明の〝おじじ〟との出会いを通して、自身の欠落を埋めていく物語、と要約できるでしょうか。横糸の方は、圭が親しくなる女の子と男の子、そして自分で縫ったシャツを着てくる(男性の)司書の先生といった人物配置も適切で、ストーリーの進行も滑らかだと思いました。縦糸の方の〝おじじ〟は、実は圭の祖母を育てたおじじで、つまり実際にはとっくに亡くなっている人という設定で、こちらの方がファンタジーな仕掛けになっているわけですが、このおじじのキャラがいかにも「人生の先達」という感じで、それを受けとめる圭のほうもいかにもいい子に見えてしまいます。この作品に登場する子どもたちや大人たちは、本来もっとある種の〝危うさ〟を抱えている人たちであり、そうした心模様がもっと掘り下げれば、ファンタジーの仕組みが作者のメッセージの発信装置になるのではなく、読者の心に迫る仕掛けになり得たのではないでしょうか。
「オカリナの島」は、現代の少女が、自身の住む離島の六百年前にタイムスリップするという、ファンタジーの構造としては、シンプルな作品です。そのこと自体はいいのですが、問題は、そうした仕掛けによって何がどう描かれたかということにあります。曾祖母が島のユタだった主人公の美結は、自分が持っているらしい霊能力に違和感を抱いていますが、六百年前の琉球統一の抗争で死んだ島の統治者「世の主」の亡霊の姿が心に残ります。これが伏線となって、六百年前の島にタイムスリップし、そこで村の巫女ユンヌに出会います。そしてユンヌや村人たちとの時間の中で、自身の霊能力のありようを見つめていきます。つまり、これは美結の成長の物語であるわけですが、世の主の運命に関しては、基本的には美結は歴史の目撃者ということになります。この二つをダイナミックに重ね合わせることはとても難しい業だとは思いますが、それなしには、読者を作品世界に引きずり込むことは望めません。
ということで、以上の二つの作品は、「奨励」の方向性はそれぞれですが、奨励賞を贈るにぴったりの作品でもありました。
さて、「星の降る夏」ですが、これについては評価が分かれました。四一〇枚という長さで、おそらく大半の子ども読者は、途中で読むことを断念してしまうでしょう。それだけで、「賞」の対象としては致命的かもしれませんが、僕は少なくとも(作者にとって)このように書かなければ書けなかった作品として、辛抱強く(?)読めましたし、心に残るものがありました。読みながら思い出したのは、天童荒太の『悼む人』で、ストーリーには要約しにくいのですが、人間がなにかを「想い続けること」自体が一つの冒険であるような、そういう作品世界だと思いました。ただ、『悼む人』の場合でも、三人の視点から描かれているように、なにかしらの構成上の工夫をしなければ、この作品世界が子ども読者に伝わるとは思えません。冒頭で書いたことをややひっくり返すようですが、読者が出会いたいのは作者の「覚悟」ではなく、あくまでも生きた登場人物なのですから。

松本 なお子
(まつもと なおこ)

選考委員
ストーリーテラー、子どもと絵本ネットワーク ルピナス代表
1950年生まれ・静岡県浜松市在住

●浜松市立図書館に司書として32 年間勤務し、城北図書館長、中央図書館長を務める。その後図書館を離れ、子育て支援課長、中区長、こども家庭部長を務め、児童福祉業務に携わり、2011年に浜松市役所を退職。静岡文化芸術大学等で非常勤講師を勤める傍ら、各地でボランティア、教師、保育士等へのストーリーテリングや読み聞かせの指導にあたっている。主な著書に『これから昔話を語る人へ―語り手入門』(小澤昔ばなし研究所)。

題材に頼りすぎないで語ってください

「オカリナの島」は三作品のなかで、もっともファンタジーらしい作品だと言えます。舞台を、歴史や信仰、伝承が色濃く残る南の離島に選んだこと、主人公をユタの血を引く霊感を持つ中学生の女の子としたことなど、設定が魅力的で読者を物語世界に引き込みます。主人公の美結が、現実の世界、過去の世界、そして死後の世界の三つの世界を行き来するという構成も巧みです。行き来するなかで、美結が自分に備わっている力に目覚め、「ユタ」という役割を引き受ける決意を固めていくという、いわばオーソドックスな成長物語でもあります。
ところが、読み進めていくうちに、肩透かしを食った気分にさせられました。もっとわくわくさせてもらえるはずでした。これは、作者が「離島」の持つ既成のイメージに頼りすぎたからではないでしょうか。物語るには、登場人物をもっと掘り下げていただきたかったと思います。物語を牽引する役割を担う美結は魅力に欠けます。本人が「普通」でありたいと願っている設定でも、それを作者が「普通」に説明してしまってはいけません。「世の主」も、思いやりや優しさだけでは、美結の切ないほどに「救いたい」という気持ちに読者は共感できません。
また、「映画か物語の世界に入ってしまったみたい」や「まるで浦島太郎に出てくる」など、安易に既成のイメージを使うことも気になりました。題材も良く物語の構成も巧みなだけに残念です。
「おじじの森」も巧みに組み立てられた作品で、すっきりと読めました。主人公の小学生圭が、森の奥に一人で暮らす不思議な老人「おじじ」と出会うことで新たな一歩を踏み出すという、これも成長物語です。
所々に張られた伏線が効いています。明るくて思いやりのある申し分のない主人公の圭が時折見せる屈折や不安は、圭が実子ではないという生い立ちに繋がっていきます。圭の母親が作る料理や祖母の発する断片的なことばはおじじに繋がり、やがてそれらはすべて集約されていきます。祖母とおじじは、圭と母親同様血の繋がらない親子関係であったことが明らかになり、圭は、「不安でどうしようもなかった日々」に終止符を打つことができます。
ここに登場する大人たちはみな、子どもを尊重し絶妙の距離感を保って子どもと接しています。また圭の家族やおじじの暮らしぶりの丁寧な描写も、この作品に安定感を与えています。
けれども、圭のおいたちに「ネグレクト」という材料を使うことは必要だったのでしょうか。物語の世界で、この場面だけが異様に暗く塗りつぶされているようで違和感を覚えました。
「星の降る夏」は作者の前回、前々回の作品に較べればよくまとまっていると思います。小学校高学年と思われる主人公の、いわば心の闇と、その心が光を見出すまでを、自問自答で進めていきます。過剰なまでの自意識、絶えず自分に問いかけ、堂々巡りを繰り返す多感な男の子の内面を、これでもか、というくらいにことばを重ねて描き出すのは、この作者の得意とするところです。そこに、毎夜望遠鏡で星をのぞく少し不思議な女の子との出会いや、父親の死をからませるのも、うまい設定です。
しかしながら、この過剰なことばと繰り返しに付き合うのは、読者にとって生易しいことではありません。また、この作品のなかでファンタジー的な要素といえば、大伯母さんが星を拾うエピソードですが、唐突感は拭えません。むしろ、内気で繊細な男の子の淡い初恋物語として読んだ方がよいのかもしれません。

中澤 千磨夫
(なかざわ ちまお)

選考委員
北海道武蔵女子短期大学教授/絵本・児童文学研究センター評議員
1952年生まれ・北海道小樽市在住

●著書に『荷風と踊る』(三一書房)、『小津安二郎・生きる哀しみ』(PHP新書)など。本年5月、全国小津安二郎ネットワークの三代目会長に就任。隔月に会報発行。小津ゆかりの方々の講演会(江東区古石場文化センター)・研究上映会(東京国立近代美術館フィルムセンター、次回は11月26日、清水宏『銀河』)などを定期的に開催。

「素直」という評価は素直な褒め言葉ではない。

 今回の三作。とりあえず、素直な生徒・先生と素直ならぬ少年の物語というところ。文学作品であるから、素直が素直な褒め言葉であるべくもない。
 まず、素直ならぬ古市卓也「星の降る夏」。古市独特の粘着質で自問自答を繰り返す饒舌な文体が、読者を苦しめるかもしれない。ブドリの「黒い壁」ケース(宮澤賢治「グスコーブドリの伝記」で、生まれて初めて黒板を見たブドリがそれを「大きな黒い壁」と表現したこと。つまり言葉が自働化する以前の発語)と同様、古市は常に言葉=概念が発生する初源的位置に舞い戻ろうとする。概念が異化を繰り返すことが古市の身上なのだ。かく過剰な文体(それはまさしく文体)に馴染めぬ読者から見放されたら、小説家・古市卓也はどこに向かえばいいのか。大変に難しい。高見順や後藤明生のごとき饒舌で脱線を重ねる世界をもまた偏愛する私のような素直ならぬ読者(おまけに選考委員でもある立場)としても戸惑うばかりである。
 「星の降る夏」は、社会学でいうところの第三項排除ならぬ、第三項発見の物語。第三項が排除されるのはもちろん既に社会が形成されているからであり、第一項、第二項のみでは絶対的な対立までしか生じない。この物語において3が示す重要性に着目しよう。3は家族における完成数であり、「ぼく」の家も「女の子」の家も2から成る父が不在の欠損家族。そこで、「ぼく」がほぼ3日おきにカフカの迷宮を思わせる門の中の家で、4の象徴(ここでは3以上というほどの意)たるラジオとこと座を駆使して父を探す。結果的に「ひとりぼっち」の1たる「ぼく」が第三項となり、女の子の家族が回復。これは幽霊/人間、あの世/この世、女/男、大人/子ども、うそ/ほんとうといった絶対対立をスラッシュして越えていく役割を示したものであり、「ぼく」に社会的意味が生まれるということなのだ。つまり、第三項として補完する「ぼく」という機能の発見は、まさに「ぼく」に希望の星が降ってきたということ。「ぼく」の希望は、当然読者の希望に転化する。それは「ぼく」と同様の幻想を抱え込んでいるかもしれない読者の肯定でもあるのだ。一見すると病辱の幻想に過ぎない「ぼく」の脳中をこのように絵解きするのは興を削ぐものであろうか。いや、作者によって巧まれた仕掛けは、まだあちらこちらに埋まっているに違いない。謎が多いゆえに再読、三読の喜びに満ちた作品。でも、多数の支持は得られないのだな、悲しいことに。
 それに比べれば、素直な澤井美穂「おじじの森」と南野たかし「オカリナの島」はかっちりと型にはまり、安定している。だがそれゆえに、読者への挑発に乏しい。「おじじの森」はマヨイガ譚を踏まえ、そらさない。語り手が「正しい結城が言う」と図書委員の少女をからかうのも巧い。しかし、藤村先生。謎めいたキャラクターとして登場するものの、分かってしまえば、拍子抜け。再読の楽しみが薄い。皆いい人過ぎてつまらない。
 同じことが「オカリナの島」にもいえる。どうやら豊富らしい作者の南島体験もちゅら島の観光や歴史をなぞること以上の切実さがあるか。実体験をよしとする素朴実感主義からいうのではない。作者の身体にはもっともっと豊かな物語の種が胚胎しているのではなかろうか。なにより、若いのはいい。洋々たる未来と可能性があるかもしれないから。でも、あったのは可能性だけというのがこの世界の残酷な現実だ。あえて冗談めかした例えでいえば、島尾ミホのごとき魔性の島娘に捕まって地獄を見るがいい。体験を語るのではなく、体験が昇華することを期待したい。繰り返すが、これは冗談ではない。

工藤 左千夫
(くどう さちお)

選考副委員長
絵本・児童文学研究センター理事長
1951年生まれ・北海道小樽市在住

●生涯教育と児童文化の接点を模索するために絵本・児童文学研究センターを開設(平成元年)。平成14年、特定非営利活動法人となる。2年半にわたる基礎講座(全54回)を開講するとともに多様な公益事業に取り組んでいる。
著書『新版ファンタジー文学の世界へ』『すてきな絵本にであえたら』『本とすてきにであえたら』(ともに成文社)、『大人への児童文化の招待』(エイデル研究所 河合隼雄共著)、『学ぶ力』『笑いの力』(岩波書店 河合隼雄他共著)。 

選考会を終えて、思うこと

第22回児童文学ファンタジー大賞の季節は過ぎた。第22回ということは、本賞と向き合ってから22年ということ。しかし、賞創設の準備期間を考慮すると24年、ということになる。
選考会での議論が白熱し、良い意味での充実感を得た選考会はいつだったのか? 
「大賞がでるかも」という期待感をもって臨んだ選考会はいつだったのか?
振り返ると、第1回と第3回目だけ。秀作揃いは当然としても、最近の選考会での議論とは異なる。「この作品は編集者との絡みで、どれだけ良い作品になるか」という委員同士の会話がとにかく多かった。しかし、今回のような作品の水準では「この作品には良いところがあるはずだ」という先入観、つまりそのような色眼鏡をもって、何とか作品の良さを無理やり引き出そうとする選考会が続く。これは不毛な論争にしか過ぎない。残念ながら、今回の選考会も筆者には不毛のそれであった。賞創設の張本人がこれではいけない、と思いつつも、選考後の疲労感を拭い去ることができない。これは自分の年齢のせいではないことを、あえて付記する。
また、今回は「タイム・ファンタジー」の応募作品が多かった。それは、現代において「タイム・ファンタジー」が求められているのか? という疑問をもつ。しかし、どうもその類ではないようだ。ただ、選考委員長の斎藤惇夫さんが、選考会で述べたように「タイム・ファンタジー」には「どうしようもないせつなさ」という読後感が必要、という観点には全面的に同意する。確かに名作と呼ばれるタイム・ファンタジーには、共通の何か(魂)があった。そのような作品に出合えた時、疲労感は一気に払拭されるはず。心地よい疲労感をおぼえる選考会に、再度、巡り合ったとき、大賞に値する名作が生まれ出るはずである。それを信じるしかあるまい。そのような意味で、今回の選評については各選考委員にお任せする。ただ、斎藤惇夫さんの選評に同意するだけである。

一言:古市卓也さん。児童文学とは何か、という普遍的課題にしっかりと取り組んだらどうでしょう。長年、あなたの作品を読み続けた者として、昨今の作品が口当たりの良い選評に出合うことで、さらに迷宮に入り込みはしないかと心配でなりません。


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