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ドーンDAWN27号

選考結果

大 賞 該当作品なし
佳 作 該当作品なし        
奨励賞 「アンネ・フランクの奇跡」 橋本 喜代次(ペンネーム:海山 望)

第25回児童文学ファンタジー大賞の公募は2018年11月から2019年3月31日までの期間で行われた。
応募総数150作。
一次選考において12作、二次選考では5作が通過。三次選考会においては次の4作が候補作に決まり、最終選考委員に原稿を送付した。

 「秘蝶少年記」       伊藤 歩
 「アンネ・フランクの奇跡」 橋本 喜代次
 「垣のむこうの奇妙な遊び」 畑中 弘子    
 「くらこんぞ」       藤原 道子

 最終選考会は斎藤惇夫(委員長)、藤田のぼる、松本なお子、中澤千磨夫、工藤左千夫の各氏によって構成され、9月8日、小樽にて開催。
 選考会は、大賞推薦の有無から始まり、大賞は該当作品なしということで、全選考委員の意見が一致した。
 続いて、佳作・奨励賞の選考審議に入り結果として、「アンネ・フランクの奇跡」(橋本喜代次)が奨励賞に決定した。

受賞者のことば

橋本 喜代次
(はしもと きよじ)

ペンネーム 海山 望
神奈川県在住 71歳
横浜国立大学教育学部卒
奨励賞「アンネ・フランクの奇跡」 
274枚(400字詰原稿用紙)

小説を書いてみようかなと思ったのは2年ほど前のことです。
65歳で脳梗塞になり、右手足に重い障害が残りました。以後、リハビリ中心の療養生活が続き7年目になります。
人に助けられながら、けっこう忙しく、生活に充実感も味わえるようになったのですが、未完成で終わっている自分の脚本がずっと気になっていました。ある時、小説に書いてみたらどうだろう。そんな気持ちが起きました。左手でパソコンは打てる。頭もなんとか動きそうだ。
私は公立中学校の教員をしていました。ずっと演劇部の顧問で、子ども向けの劇の脚本をぼちぼち書いたりしていました。
「アンネ・フランクの奇跡」の原型は50代に「ケータイのアンネ・フランク」という短い劇の脚本を書いたのが始まりです。主人公のケータイにアンネの声が混線してくるという設定。
 恥ずかしい話ですが、私が『アンネの日記』をちゃんと読んだのはこの時が初めてです。読みながら衝撃に近い感銘を受けました。13歳のアンネが必死に紡ぎ出す言葉の深さと迫力。圧倒されました。
『アンネの日記』は世界のベストセラーと言われますが、最近の子どもたちにはほとんど読まれていません。読んでほしいと思います。
またその頃、私は不登校の生徒が通ってくる学級に勤務していました。大きな学校の片隅に隠れるように建てられた小さなプレハブ。相談指導学級という名の。10年間過ごしたのですが、そこでの生徒との出会いは、私にとって貴重な経験でした。今回の作品に、その頃の私の思いの一端が反映されていると思います。
脚本は何度か書き直しました。でも、どうしても完成と思えない。大枠はできているのに主人公の遥香の心が描けない。
小説にしたら……。そんな考えが奇跡のように頭にひらめきました。
今回嬉しかったのは、小説にして作品が完成したと思えることです。そして、児童文学ファンタジー大賞に応募できたこと。入賞までさせていただいたこと。すべてが夢のように有難いことです。

選後評

斎藤 惇夫
(さいとう あつお)

選考委員長
児童文学作家/絵本・児童文学研究センター顧問
1940年生まれ・埼玉県さいたま市在住

●長年、福音館書店の編集責任者として子どもの本の編集にたずさわる。1970年、デビュー作『グリックの冒険』で日本児童文学者協会新人賞。1972年『冒険者たち』で国際アンデルセン賞優良作品、1983年『ガンバとカワウソの冒険』(以上全て岩波書店)で野間児童文芸賞を受賞。2000年に福音館書店を退社し、創作活動に専念する。2015年、小~高校時代を過ごした新潟県長岡市から、子どもへの読み聞かせや選書の大切さを伝え続けた活動が評価され、第19回「米百俵賞」を受賞。2010年に『哲夫の春休み』(岩波書店)、2017年には『河童のユウタの冒険』(福音館書店)を刊行。

書く理由

この作品を「書かずにはいられなくて」書いたのですか? あるいは、書きながら「書かずにいられなかった」理由が分かってきましたか?

と、この夏ずっと4人の作者たちに問いかけてみたい衝動に駆られていました。子どもたちにこの物語がふさわしいだろうか、などと思うずっと以前の問いです。もしかすると一年に一度という締め切りが酷なのではあるまいか、例えば二年に一度の「ファンタジー大賞」だったならば、作者たちは自分の内面と、表現形式に、シカと向き合うことができたのではあるまいか、などとすら思ってしまいました。

「くらこんぞ」
発想が新鮮で、蔵つきの妖精の姿や性格も、また妖精から見た家の歴史も一通り描かれてはいるのだが、妖精と人間の関わり方の表現が薄い。というよりも、誕生や恋や死も含めて「くらこんぞ」そのものの生活や歴史が描かれておらず、(作者が妖精を未だ経験しておらず、と言ってもいい)物語の核がない。そのために、独自なファンタジーを描くところまで行っていない。蔵に棲む妖精を徹底的に描くことで(それこそこの作者がこの作品で挑むべき課題であったはずなのだが)、人間も人間の歴史も鮮明に浮かび上がってきたはずなのに、未完の作品という趣が強い。

「秘蝶少年記」
絵本の物語、言い伝え、研究書を順に示しながら、一つの伝説を物語の核にしようとしたのはいいのだが、それが整理されずに出てきて物語が滞り、何よりも思い付きの域をでない伝説が繰り返し語られ退屈である。蝶の羽化を観察する部分は丁寧に描けているのだが、蝶・昆虫への人間の化身は安易すぎる。また、登場人物たちは、母親も含め、パターンをでず、新たな子どもの発見がない。ファンタジーというジャンルにこだわらず、昆虫と少年の物語に絞ったら、新たな物語の可能性があったかもしれない。

「アンネ・フランクの奇跡」
登校拒否の女の子の部屋に突然アンネたちを登場させる不自然さが、最後まで作品の足を引っぱってしまったように思う。『アンネの日記』を主人公が読む、その記録をリアリズムで描きながら少女の内面に肉薄するか、そういうものを介在させずに、主人公の内面に深く入っていくか、どちらかにすべきであった。とは言うものの、少女の部屋に突如飛び込んでくる人々の不条理さが、時に安部公房の作品を思い起こさせたりして、少女の困惑がなまなかならぬものであることを示す符号にはなっており、一つの方法として読むことができる作品である。

「垣のむこうの奇妙な遊び」
「目に見えるようにすること」、それがファンタジーであることをしかと思い起こしていただきたい。物語の入り口も、舞台になっている家の構造も、読者にはよく見えてこない。また、垣の向こうに行く(時間を超える)ことが、おじいさんの発見、おじいさんの体験した悲しみを主人公が体験できるところまで、が描かれていない。おじいさんの夢と、主人公のファンタジー体験が一体化する世界をねらっていたのかもしれないが、空回りに終わってしまった。作者が描きたかった世界が何であったのか、そのためにはどういう表現方法が適切なのか、例えば『トムは真夜中の庭で』や『時の旅人』などでじっくり学んでいただきたい。

藤田 のぼる
(ふじた のぼる)

選考委員
児童文学評論家/日本児童文学者協会副理事長
1950年生まれ・埼玉県坂戸市在住

●小学校教諭を経て、日本児童文学者協会事務局に勤務。児童文学の評論・創作の両面で活躍しているほか、東洋大学などで非常勤講師を務めている。2013年に発表した創作童話『みんなの家出』(福音館書店)で第61回産経児童出版文化賞フジテレビ賞を受賞。
主な著書に『児童文学への3つの質問』、『麦畑になれなかった屋根たち』(ともにてらいんく)、『山本先生ゆうびんです』(岩崎書店)、『「場所」から読み解く世界児童文学事典』(原書房、共著)などがある。

作品の個性を貫く〝準備〟と〝意志〟を

今回の最終候補4作のうち、読者として楽しんで読めたのは2作、「くらこんぞ」と「アンネ・フランクの奇跡」でした。
「くらこんぞ」はフィクションとしての構築度、ストーリー性という点では不満が残りましたが、なにより〈くらこんぞ〉というキャラクターを創り上げたのがポイントだと思いました。これは座敷童子ならぬ蔵に棲みつく蔵小僧という伝承上の存在に、作者が新たな命を吹き込んだのだと思いますが、土蔵というのは旧家の象徴で、「家」は人を縛り付ける制度でもあったわけです。この物語で中心になるのは、次男が分家するときに新たな土蔵が建てられ、本家の3つの土蔵を守っていた5人のくらこんぞの中から、分家の蔵に遣わされることになる一番若いくらこんぞのシジマです。時代は家をめぐる社会状況が大きく変化する大正から昭和前期で、この設定も巧みだと思いました。
ただ、読み進めていくと、シジマ自身の物語とシジマが見守る稲造家の人間の側のドラマの描かれ方がどちらも中途半端で(もちろん作者はその二つを重ねて描こうとしたのでしょうが)、どちら側のドラマに焦点を合わせて読んでいけばいいのかが、定めにくい感じでした。前々回の佳作を取られた「冬眠窟」に比べてオリジナリティでは劣るもののある意味ファンタジーの王道をいく作品であり、シジマの視点を磨く形で子どもたちに届ける作品に仕上げてほしいと思いました。
そして「アンネ・フランクの奇跡」です。選考会では結構厳しい意見も出されましたが、僕はまったく戸惑うことなく作品世界に引き込まれました。引きこもっている主人公の部屋に、言わばなんの手続きもなく、アンネが、そしてアンネと共に隠れている人々が現れるわけですが、僕は劇でよく使われる手法のように感じて、むしろその手続きのなさにリアリティを感じました。不登校で引きこもっている主人公が隠れていることと、アンネが隠れていることを等価にできるのかという設問もあり得るかもしれませんが、なぜ隠れるのか、なにから隠れているのか言葉にできない現代の少女の前に、隠れる理由があまりに明らかなアンネ(たち)が現れ、しかしそのことによって両者の抱える不条理さがそれぞれにあぶりだされていく構図は、とてもエキサイティングでした。ただ、主人公の母親も実は少女時代、父の再婚話がいやで『アンネの日記』をもって家出した、というあたりのエピソードは、むしろこの作品世界を妙に説明してしまう感じがあって、かえって逆効果だと思いました。
「秘蝶少年記」は、主人公・諒太が虫の「ツッシー」との関りの中で自分の殻を破っていくプロセスには説得力がありましたが、風土記を生んだ古代と、諒太が住む現代を、人のありようを支点にして重ねようという意図は買えるものの、いくつかの意味で作者にまだその意図を現実のものにする〝準備〟が整っていないように思いました。その中心的な課題はやはり文章で、古今の様々な作品の文章、語りの呼吸のようなものを積極的に学んでほしいと思いました。
「垣のむこうの奇妙な遊び」の問題は、やはりかなり早い段階で展開が読めてしまうことです。もっとも特にファンタジーの場合、すでに書かれた作品と同パターンということ自体は、結構あり得ます。もう一つの問題は、主人公が出会った(昔の)子どもたちの世界の描かれ方の平板さにもあると思います。今の子どもたちの世界と対比させてあまりに理想的(?)な姿で、例えばもっと排他的な、もっと意地悪な側面なども描かれていれば、「もう一つの世界」と出会った驚きや歓びが、より読者に伝わったのではないでしょうか。
今回の4作品はかなり違う持ち味の作品でしたが、それぞれの持ち味、個性を貫くだけの、準備と意志の大切さを改めて感じさせられました。

松本 なお子
(まつもと なおこ)

選考委員
ストーリーテラー、子どもと絵本ネットワークルピナス代表
1950年生まれ・静岡県浜松市在住

●浜松市立図書館に司書として32 年間勤務し、城北図書館長、中央図書館長を務める。その後図書館を離れ、子育て支援課長、中区長、こども家庭部長を務め、児童福祉業務に携わり、2011年に浜松市役所を退職。静岡文化芸術大学等で非常勤講師を勤める傍ら、各地でボランティア、教師、保育士等へのストーリーテリングや読み聞かせの指導にあたっている。主な著書に『これから昔話を語る人へ―語り手入門』(小澤昔ばなし研究所)。

ただ向こう側の世界を描くのではなく

ファンタジーはただ向こう側の不思議な世界を描くだけではなく、こちら側の世界では得られなかった心が震えるような喜びを描いてほしいと私は願っていつも選考にあたってきました。その意味では今回の作品はどれも物足りなさを覚えました。
今回奨励賞を受賞した「アンネ・フランクの奇跡」は、新しい手法の可能性が評価されました。物語は、主人公遥香の部屋を舞台に、現実の遥香たちと非現実のアンネ一族の隠れ家生活とが、まるで不条理な舞台劇さながらに交錯して進みます。そして不登校の中学2年生遥香は、過酷な運命に毅然として立ち向かうアンネと出会うことで次の一歩を踏み出していきます。アンネと出会う契機になったのも偶然みつけた母のかつての愛読書「アンネの日記」であり、母も実は父親と相容れずもがき苦しんだ過去を持つことを知り、終盤で母と娘は少しずつ寄り添うという設定です。構成としては巧みで、主人公の年頃の、それも自意識の強い少女にとって、実在したアンネ・フランクは名前を登場させるだけでも大きなインパクトがあります。それだけに、アンネたちが待ち焦がれる奇跡、起こるべき奇跡、それを共有して読み進むことが、私はできませんでした。

「くらこんぞ」は4作品のなかでは最も楽しく読めました。土蔵に住みつき蔵とその家族を守る「くらこんぞ」という設定はよくあるパターンですが、くらこんぞのシジマやシジマが守ろうとする宮森家の人々、猫のシマなど、登場人物の配置が巧みで、関係性も説得力があります。山間地の豊かな自然やそこで営まれる暮らしも選ばれたことばで丁寧に描かれています。シジマは物語の前半では宮森家の人々を守り抜くことに悩みもがきますが、後半では実は自分も守られていたのだと悟ります。永い命を持つくらこんぞと限りある命を生きる宮森家の人々の関わりを見つめることで、読者も「守る」こと、「生きる」こと、そして「死」について、シジマと共に考えることになります。途中までは物語に入り込んで、シジマに寄り添い、その世界に入り込むことができたのですが、物語が進むにつれて緊張感が薄れ、終盤は唐突に「戦争」や「平和」といったテーマ性が強調されて、文章が説明的で急ぎ足になってしまいました。

「秘蝶少年記」は、昆虫好きな小学6年生の諒太のひと夏の体験です。偶然出会った伝説上の青年ツシトから自分の心が宿っているという蝶の卵を託され、それをきっかけにツシトの数奇な運命に関わることになります。その関わりの中で諒太は自分自身を見つめ直し、友達や家族との関わりを変化させていくという、オーソドックスな成長譚ともいえる作品で、素材としては興味深いのですが、それがうまく整理され生かされていないもどかしさはぬぐえませんでした。諒太の人物像は生き生きと描かれて魅力的ですが、総じて文章は説明的で、視点がどこにあるのかわからない表現が多々ありました。また、物語の芯となる伝説「蓑里鬼王記」に創作「天女の繭」を加えたという設定により、展開が曖昧で情緒的になり、物語の力強さを失ってしまいました。

「垣のむこうの奇妙な遊び」は垣根の隙間が時空を超える扉であるという設定ですが、それだけでは類型的で魅力に欠けます。向こう側の世界で翔太が体験する遊びもタイトルが期待させるほどわくわくする「奇妙」なものではなく、またこちら側の世界と向こう側の世界の関係性も早くから読者は気づかされてしまいます。安易に流行ことばや風俗を用いたり、説明的で誰の視点から書いているのか不明な表現も目立ちます。ただ、すすきが原の描写は美しく臨場感がありました。

中澤 千磨夫
(なかざわ ちまお)

選考委員
北海道武蔵女子短期大学教授/絵本・児童文学研究センター評議員
1952年生まれ・北海道小樽市在住

●専門は日本近代文学、映像詩学、現代文化論、考現学。全国小津安二郎ネットワーク会長。著書に『小津の汽車が走る時 続・精読小津安二郎』(言視舎)、『精読小津安二郎 死の影の下に』(言視舎)、『小津安二郎・生きる哀しみ』(PHP新書)、『荷風と踊る』(三一書房)など。映画プロデュース作品に前田直樹監督『冬空雪道に春風』(2010年)、出演作品に篠原哲雄監督『プリンシパル~恋する私はヒロインですか~』(2018年)など。CFにDCMホーマック(2016年)、東急リバブル・娘との帰り道編(2016年)、津軽海峡フェリー(2017年)、チャペル・ド・コフレ札幌(2017年)、北海道米販売拡大委員会(2018年)など。MVにNORD「ゴー!ゴー!レバンガ~超えろを超えろ。~」(2018年)。

まずは切れば血の出る文章を。形式が整っていなければ、内容は付いてきません。

意外に聞こえるかもしれませんが、総じていえば、現代人(特に若い人)の文章作成能力はこの二、三十年で確実に向上しています。それは、ワープロ・パソコン・スマホの平準化に呼応した現象です。親指連打の速成文章も侮れません。とはいえ、読者をして、しみじみと感じ入らせる文章の書き手は、激減ではないでしょうか。プロの物書きも例外ではありません。予想変換や翻訳機能の発達は、便利さと比例して、私たちの工夫を奪います。テレビで垂れ流される日本語の劣化を挙げるまでもありません。例えば、数十年前の新聞記事と現在のそれを比較してみて下さい。大きな変化に愕然とすることでしょう。
何を規範とするかという問題。私たちは自分が生きている時代から逸脱することが出来ません。武器があるとすれば、想像力を置いてありません。良き伴侶、とりわけ古典に頼るのが近道になりましょうか。児童文学ファンタジー大賞を目指す人には、まずは形式、つまり、切れば血の出る文章を心がけていただきたい。先達の傑作を読み込んでください。

伊藤歩「秘蝶少年記」。謎めいたタイトルがいいですね。『鳴門秘帖』なんて思い出します。でも、みのり山伝説の部分などゲームのようで興覚めです。鷲尾家とツシトの謎を解くという構成よりも、クラスの魅力的な子どもたち(椅子を愛する少年とか。バレエの天才は大げさですけれども)との物語に比重を置いた方が良かったかな。その意味で、『鬼王伝』の「まえがき」をラストに置いて収束させてはいけません。これは少し前に纏めてしまい、花火大会で締めるべきでしょう。「虫の心は人よりはるかに大きい」という認識には共感を覚えました。虫の意識の自然との一体感は、物語の底流であり、人間中心主義を越えるヒントになります。
 橋本喜代次「アンネ・フランクの奇跡」。アイデアは買いました。アンネが主人公の部屋にやってくることは、ちっとも構わない。でもね。そもそも、希望を与えるアンネの存在を「奇跡」と片付けて足りるものでしょうか。ナチの描き方も類型を出ません。読み通すことが辛かった。定型的、手垢の付いたオノマトペや副詞の多用。そして何より、リーダーで一文を終えてしまうこと。本当に余韻を要求するのなら構わないのですが、必要のないところまで終始リーダーに頼ってしまいます。惰性に過ぎません。これでは、切っても切っても血は出ません。ただ、『アンネの日記』を読んでみようという気にさせるのは大きな手柄です。
畑中弘子「垣のむこうの奇妙な遊び」。好感を持ちました。それを支えるのは、おそらく、神戸言葉による軽妙なやりとりでしょうか。童謡の味わいと素朴な遊びがまたいい。
藤原道子「くらこんぞ」。候補作中、もっとも難点の無い作品。座敷童子を思わせる蔵小僧の伝説も実際にありそうです。ただ、全体的に盛り上がりに欠ける恨みがあります。戦争の扱いも平板で、空襲もあっけない。佳作を受賞した「冬眠窟」と比べ、小粒になった感は否めません。実力は十分の書き手ですので、練りに練った作品で挑戦してください。

2年前、第23回の最終候補に残った高橋光子さんの作品が、『ぼくは風船爆弾』(潮ジュニア文庫)として刊行されました。議論の対象となった作品です。ほくと君の飛翔を喜びたい。

工藤 左千夫
(くどう さちお)

選考副委員長
絵本・児童文学研究センター理事長
1951年生まれ・北海道小樽市在住

●生涯教育と児童文化の接点を模索するために絵本・児童文学研究センターを開設(平成元年)。平成14年、特定非営利活動法人となる。現在、会員数は全国で1400名を超え、2年半にわたる基礎講座(全54回)を開講するとともに多様な公益事業に取り組んでいる。昨年、創立30周年を迎え、30周年記念誌『心の宇宙に挑んで』を刊行。著書『新版ファンタジー文学の世界へ』『すてきな絵本にであえたら』『本とすてきにであえたら』(ともに成文社)、『大人への児童文化の招待』(エイデル研究所 河合隼雄共著)、『学ぶ力』『笑いの力』(岩波書店 河合隼雄他共著)。 

ファンタジーとは何か、自分がなぜファンタジーを書くのか

本賞は今回で25回目を数える。つまり25年目ということ。実に四半世紀である。優れた作品に出合うと、選考や運営への苦労が解消される。しかし、しばらく「これは」という作品に出合ってはいない。本賞創設にあたり初代の選考委員長、河合隼雄先生の危惧が今になって実感させられる。それは「ファンタジー(正式な邦訳はなし)の特性、つまり自我意識の明瞭な個があってこそ、それを支える内的世界も明瞭になる」という指摘。
欧米の「個の原理」の強靭さが内的世界(ファンタジー)を生み出す原動力。それに比して日本人の特徴は「個の原理」の曖昧さにある(それが悪いわけではない)。その曖昧さによって内的世界も曖昧になる、と考えられる作品が、昨今は続く。別に欧米に対抗してファンタジーを真似る必要もないし、逆に日本的ファンタジーはいかにあるべきか? というテーマでの煮詰めが必要な時期に来ているのではなかろうか。第3回ファンタジー大賞の『鬼の橋』以降、日本的ファンタジーに出会ってはいない。そのような意味において、選考委員長の斎藤惇夫氏が述べているように、毎年の応募を考えなければ、という意見は一考の価値ありと考える。
今回の作品群を考えると、各選考委員の評価は、表現は異なるにしても一定の道筋を示している。共通しているのは、肝心要の部分、つまり「そこを掘り下げて行かなければ」という観点や努力に欠けていること。リーダーの多様はその証ともいえる。またリーダーは2マスを使う原則も理解していないし、まして粗筋にリーダーを使用することは厳禁である。その禁じ手を使った「アンネ・フランクの奇跡」が奨励賞を受賞した。皮肉である。それだけ今回の最終選考会に残った作品のレベルが標準すれすれということだろう。「くらこんぞ」の文体の完成度は高い。しかし、文体を競う賞ではない。まして「くらこんぞ」の作家は「冬眠窟」(第23回)という作品で佳作を受賞している。選考する立場で言えば期待度が高い。高い分だけ作品後半の腰砕けには評価が厳しくなる。
詳細な選評は各委員の書きおろしを繰り返し読んでいただきたい。そして、もう一度、ファンタジーとは何か、自分がなぜファンタジーを書くのか、という基本的な問いかけを自らに課してほしい。かつて「ファンタジー大賞を受賞する方法を教えて欲しい」という御仁がいた。方法があればわたしも知りたいと応えた。大賞をとる、という目的で執筆している間は永遠にその機会が訪れることはない。「書かずにいられない」という創作衝動の延長に、その世界が、かすかに見えてくるだけである。


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